問題 12. 次の文章を読んで、後の問いに対する答えとして最もよいものを1・2・3・4から一つ選びなさい。

子育て(養育)にしろ、学校での教育にしろ、当事者(親・教師)が心がけなければならないのは、まず子どもは親(教師)の思うとおりにならないということである。あるいは、こちらの思うとおりになったら、かえって問題だということである。 「子供は親(教師)の思う通りにならない」という意味は、甘やかして野放図(注1)にしていいということではない。反抗は望ましいから、大いに結構だとも違う。もともと、親も教師も言葉で説得できるようになる以前から、まず子ども(生徒)たちを家庭や学校の生活の枠組みに入れなければならない。絶対に放っておくわけにはいかないし、理屈抜きで生活の型や秩序を押しつけざるをえない。それが親や教師の社会的役割であり、個人としてはどうかと思うようなことも、親や教師は、一律に画一的に身につけさせようとする。それは避けられない。望むと望まざるとにかかわらず、みんながやらなくてはならない。 人間が社会的動物であるということは、そういうことであろう。動物が持って生まれてきた本能で自由に生きられるのに対して、ひとの子どもは動物的な本能を抑圧されて、社会的規範を生まれてから次々と覚え、身につけていかねばならない。これは、ほかの動物と比較すると、不自由なことである。親や教師は、そういうひとの宿命である不自由を子どもたちに身につけさせなければならない。 (中略) そういう社会的規範は、今の社会のレベルや段階が必要としていることであり、本当にひとの幸福にとってふさわしいものかどうかはわからない。ましてや、生まれ育っていくその子どもにとって、絶対的に必要なものかどうかもわからない。ただ、わかっているのは、社会的に生きていくために今ある社会的規範やルール、考え方をひとまず受け入れなければならないということだけである。そして、そういうひとを規制し構成してきたもろもろ(注2)の精神的な財産は、時代とともに変わってきたという事実である。だから、次の世代は、私たちと同じにはならない。したがって、子どもは親(教師)の思うとおりにはならないのだ。 だから、次の世代は、私たちと同じにはならない。したがって、子どもは親(教師)の思うとおりにはならないのだ。 もちろん、思うとおりにしようとすることは避けられないとしても、思うとおりにならないことを覚悟しているべきである。それが子ども(生徒)や、あとの世代の人たちへの尊敬であり、信頼であろう。「こちらの思うとおりになったら、かえって問題だ」も同じことだが、現在の人間や社会がすでに理想を実現した完璧な社会であるはずがないし、私たちが正しいと思い、子どもたちに押しつけている社会規範やルールも、あくまでも暫定的なものにすぎない。だから、私たちが予想した以上に、私たちの思いどおりになる子どもができてしまったら、大変なことになる。 おとなと子どもとの誤差は、基本的にはいつでも歓迎していいことである。 (注1)野放図にする:勝手にさせる (注2)もろもろの:さまざまな

1. 筆者によると、親や教師は子どもや生徒に対して何をしているか。

1. 反抗を容認しつつ、不自由な社会的規範に従わせている。

2. どの時代にも通用する社会的規範を身につけさせている。

3. 社会的規範を教え、社会の枠組みに適応させている。

4. 社会的規範を教えたうえで、自由に生きる方法を身につけさせている。

2. 精神的な財産とは何か

1. ひとが幸福になるために守ってきたもの。

2. ひとが本能を抑圧されずに生きるためのもの。

3. ひとが社会で生きていくために作られてきたもの。

4. これから生まれ育っていく子どもにとって必要なもの。

3. 筆者が言いたいことは何か。

1. 社会的規範は時代によって変化するものであり、子どもはおとなの思うとおりにならな くて当然である。

2. 社会的規範は暫定的なものにすぎず、子どもが自身の考え方に合ったものを作って いくことが望ましい。

3. 時代の変化に適応できるように、おとなは子どもに社会的規範の背景となる考え方 を教えたほうがいい。

4. 時代によって考え方は変化するものなので、それに合わせて次の世代が社会的規範 を変えるべきだ。

最近、日本ではテレビや書籍で脳科学者がブームになりました。脳科学が一般の人々の関心を強く惹いた最大の理由は、脳科学によって自分がよりよい人生を歩めそうだと感じるからではないでしょうか。 科学は事物を客観的に扱う三人称的な学問です。そのため、何か冷たく、自分とは関係のないようなよそよそしさ(注1)を感じてしまいます。ところが、脳科学は人間の感情や思考や行動に関わる科学です。そのため、科学としては初めてのことですが、まるで文学や芸術のように一人称(注2)世界に踏み込んできて、幸せな人生のノウハウを提供してくれているように思えるのです。 しかし、せっかく関心を持っている人に水を差す(注3)つもりはないのですが、脳科学が今よりずっと進歩したとしても、人間の心や私たちの人生について、すみずみまで解き明かせるようになるわけではないと肝に銘じて(注4)おいた方がよいと思います。脳は複雑で、まだまだわからないことが多く、普通的な法則に到達するまでの道のりはきわめて遠いのです。そして、たとえ到達できたとしても、科学の普通法則は人生の個別性や一回(注5)に対しては全く無力です。ゆえに、人生の個別の事柄に適用して何かを予言したりすることは、おそらく不可能でしょう。 もう一つ大切なのは、科学は事実を扱うことはできますが、価値観の問題を扱うことはできないということです。ですから、脳科学によってある事実が判明したとしても、それを価値観と混同してはいけません。たとえば、ある脳科学の本に、「こうすれば脳を活性化できるので、みなさんもやってみましょう」と書いてあったとします。ですが、脳の活性化は絶対的な価値でしょうか。極端な例で考えてみましょう。副作用の全くない薬物だったとしても、薬物で健康な人間たとえば受験生の脳を活性化することは許されるでしょうか。これが許されるかどうかは、論理や価値観に属する話です。価値観は個人と社会が決めるものです。そして、個人の価値と社会の価値も同じとは限りません。脳科学の知見(注6)は事実を記述したものであって、価値とは何の関係もないのです。 (中略) 人類がどのような未来を選ぶかという問題も、結局のところ価値観の問題です。科学は、選んだ未来を実現するための道具にはあり得ますが、未来を選ぶ価値観の問題を扱うことはできません。 (注1)よそよそしい:無関係である (注2)一人称:書き手が自分自身をさす (注3)水を差す:わきから邪魔をする (注4)肝に銘じる:心に強くきざみつけて忘れない (注5)一回:性一回起こるだけ (注6)知見:見解、見識

4. 筆者によると、人々は脳科学に何を期待しているか。

1. 複雑な脳の仕組みをわかりやすく説明してくれること。

2. どうすれば自分が幸せに生きられるかを教えてくれること。

3. 人間の感情や思考や行動の扱い方を教えてくれること。

4. 人間にとって幸せな人生とは何かを客観的に示してくれること。

5. 脳科学について、筆者の考えに合うのはどれか。

1. 個人の人生に適用するには、普遍的な法則を見つけなければならない。

2. 人の脳の機能をすべて解明できたとしても、普遍的な法則にたどり着けない。

3. 普遍的な法則にたどり着いたとしても、人生の個々の事柄には応用できない。

4. 普遍的な法則に到達するには、人生の個々の事柄を解き明かさなければならない。

6. 筆者が言いたいことは何か。

1. 科学が証明した事実は、個人や社会の価値観に影響を与える恐れがある。

2. 科学だけでなく個人や社会の価値観を考慮したうえで、未来を選ぶ必要がある。

3. 科学は個人や社会の価値観を扱えず、人類が望む未来の実現には役に立たない。

4. 科学は事実を対象とするものであり、個人や社会の価値観を扱うものではない。

企業にとっても、人々にとっても、さきのみえない不安な時代である、そしてそんな不安な時代を生きる子供たちに、「生きる力」をつけさせたいという「親心」は、わからないではない。また企業の経営者が、少しでも優秀な人材を取り込みたいと考えるのは、必然ではあるだろう。地域の衰退や産業の空洞化を食い止められる人間が現れてくれれば、わたしたちの不安な気持ちも、いくぶんなりとも和らぐというものである。 しかし、まがりなりにも教育学を専門とする者として、ここは言わせてほしい。現代日本社会の問題を、なんでもかんでも教育で解決しようというのはいただけない。 確かに教育は、人間を育てることを通じて、人々の人生や社会の未来に対して、一定の貢献を為すことができる。しかしわたしに言わせれば、そのような教育の役立ちの度合いは、決して大きいものではない。教育には不確定性がつきものである。これはもう、教員養成のテキストでも論じられる「教育学の基本のキ」だ。教えたからといって、その分だけ子どもが育つというわけではないし、教えたつもりがないのに、子供の方が勝手に学んでいるということもある。もちろん教師も教育学者も、その確率論的な育ちをどうにかして望ましい方向に向ける努力はするが、なんと言っても育つのは子どもなのだから、「最小限のコストで最大限のメリットを達成しなさい」「必要な人材をきっちりきっかり、耳をそろえて(注1)社会に納品しなさい」などという注文を、そうそう請け負うことはできない。 それにそもそも教育は、経済のためだけのものでも、共同体の維持のためだけのものでも、家族のためだけのものでもない。市場も、国家も、地域共同体も、そして家族も、もっと役に立つ教育をしろ、意味のある教育をしろと言うけれど、それぞれ注文はバラバラなのである。もちろん教育は、それぞれの要求に(確率論的に)少しずつ貢献はする。しかしそれをもって推し進めて、どれかの目的のためだけに合理化・効率化しようとすれば、教育はずいぶんと歪な(注2)ものになる。まして、みんながみんな教育からそれぞれの利益を引き出そうと躍起になっても(注3)、そんな過剰な期待に引き裂かれた教育がうまく機能するとは思えない。 (中略) 停滞の続くこの社会で、誰もが不安に押しつぶされ、ちょうどその分だけ教育に過剰な期待や希望を託そうとしている。その結果、教育、なかでも学校教育が、改革の波に呑まれ、余裕をなくしそうになっている。教育に多くをもとめすぎると警報を鳴らすことは、結果的に、この社会と社会と教育を持続させるためにいま一番必要なことなのではないだろうか。 (注1)耳をそろえて:不足なく (注2)歪な:ゆがんだ (注3)躍起になっても:必死になって

7. 決して大きいものではないと考える理由として、筆者が述べているのはどれか。

1. 企業や社会が望む人材と、教育学で目標とする人材は異なるから。

2. 「生きる力」をつけるために必要なことは、明確ではないから。

3. 子ども一人一人に併せて、教育の内容を変えられないから。

4. 子どもは、教えたとおりに育つとはかぎらないから。

8. 教育について、筆者の考えに合うのはどれか。

1. それぞれの目的に合わせて合理化・効率化しなければ、機能しない。

2. みんなで一つの目的を共有しなければ、効果は上がらない。

3. 特定の目的を果たすために存在するものではない

4. 役に立つかどうかという観点で評価されるべきだ。

9. 筆者が最も言いたいことは何か。

1. 多様な社会の要求に応じられるように、教育のあり方を考え直すべきだ。

2. 社会の不安を取り除くためには、教育を合理化・効率化すべきではない。

3. 教育の改革によって、安定した社会を持続させていくことが必要だろう。

4. 現代社会の問題のすべてが、教育で解決できると思ってはいけない。

SNS(注1)を含むリアルタイムウェブ(注2)の本質は、時間と過程の消去にある。かつてコンテンツ(注3)の拡散には一定の時間がかかった。権威やメディアをすり抜ける必要もあった。けれどもいまや、それらの面倒をすべてすっとばし(注4)、無名の書き手が一晩で何百万もの支持者を集めることができる。それはSNSの良いところだ。 けれども人生にはトラブルがつきもの(注5)である。どれだけ誠実に生きていても、誤解や中傷に曝されることが必ずある。そしてそういうとき、SNSの支持はほとんど役に立たない。匿名の支持者は、トラブルの話題自体すぐに忘れてしまう。あっというまに(注6)集まった人々は、同じくあっというまに離れる。そこで継続的に助けてくれるのは、結局は面倒な人間関係に支えられた家族や友人たちだったりする。 SNSの人間関係には面倒がない。だからSNSの知人は面倒を背負ってくれない。そんなSNSでも、たしかに人生がうまく行っているときは大きな力になる。けれども、本当の困難を抱えたときは、助けにならないのだ。 これからの時代を生きるうえで、SNSのこの性格を知っておくことはとても重要なように思う。そもそも、人生の困難なるものは自分と世界のズレの表れである。自分はあることを正しいと信じるが、世界はそう思わない――そういう対立が生じたとき、困難が訪れる。だから困難そのものが悪いわけではない。むしろ、概念の発明や政治の変革は必ず困難とともに生じる。その困難を時間をかけて解消し昇華する(注7)ことで、はじめて自分も相手も社会も進歩するのだ。けれども、いまのSNSにはそのような熟成の余裕がほとんどない。 困難な時期を支えるとは、言いかえれば、支える相手と世界の関係が変化する過程に時間をかけてつきあうということである。ひとりの人間が変わるというのはたいへんなことで、「いいね!」をつけるようにポンポン複製できるものではない。いわゆる「議論」で相手が変わると考えているひとは、人間の本質について無知である。ぼくが一生をかけて変えることができるのは、ごく少数の身の回りの人々だけであり、そしてぼくを変えることができるのもおそらくは彼らだけだ。その小さく面倒な人間関係をどれだけ濃密に作れるかで、人生の広がりが決まるのだと思う。 家族も友人もあっというまには作れない。面倒な存在でもある。だからこそそれは変化の受け皿となる。面倒がないところに変化はない。情報技術は、面倒のない人間関係の調達を可能にしたが、それはまた人間から変化の可能性を奪うものでもあった。そのことを忘れずにおきたいと思う。 (注1)SNS:ウェブ上での情報のやり取りや交流の場を提供するサービス (注2)リアルタイムウェブ:情報更新が即時に行われるウェブ (注3)コンテンツ:ここでは、情報 (注4)すっとばす:ここでは、省略する (注5)つきもの:必ず伴うもの (注6)あっというまに:短い間に (注7)昇華する:ここでは、別の良いものに変える

10. SNSの支持はほとんど役に立たないとあるが、なぜか。

1. SNSの支持者の意見はさまざまで、すぐにはまとまらないから

2. SNSの支持者は無名で権威を持たないひとが多いから

3. SNSの支持者はトラブルの原因を誤解したまますぐに発信するから

4. SNSの支持者はすぐに興味をなくし、去ってしまうから

11. 困難な時期について、筆者はどのように述べているか。

1. 自分と世界の認識のズレに気づき自分が変わろうとすれば、乗り越えられる。

2. 「議論」によって相手や自分を変化させることで、乗り越えられる。

3. 少数の身の回りの人々から人間関係を広げていけば、乗り越えられる。

4. 家族や友人のような存在との深い関係によって、乗り越えられる。

12. 筆者が言いたいことは何か。

1. 情報技術の特徴を理解したうえで活用すれば、自分自身の変化につながる。

2. 情報技術を活用すれば、面倒な人間関係を変えられる可能性がある。

3. 情報技術によって作られた人間関係では、人間の変化は期待できない。

4. 情報技術は人間の変化の可能性を奪うものであり、利用は控えるべきだ。

植物は美しい花を咲かせ、虫を誘った。鳥は飛ぶために翼を生やした。しかし、生物は、自ら求めてそのような性質を得たわけではない。生命にとって新しい変化は偶然によってしか生まれない。 DNAが複製され、親から子に受け渡されるとき、こくこく希に、ほんのわずかな誤植(注1)が発生する。もちろん誤植はランダム(注2)におきる。ささいな誤植は新たな変化をもたらす。その変化自体には目的も意図も方向性もない。そこから何かを選びとるのは自然環境である。自然環境に適した変化は選択され、子孫を残す。環境に不適な変化は子孫を残せず、淘汰される。 ところが。もし本来ならあっさり淘汰されてしまうような変化であっても、それを選びとり、守り、育むような「選択者」が自然以外に存在すれば、その変化は生きのびることができる。そんなことが近年、実はたくさん、あちこちで起こっている。近年、といってもそれは、人間がこの世界に出現して以来のこと。 たとえば鳥。鳥は卵を産むと巣に籠って暖める性質を持つ。数週間それに専心(注4)する。しかし、もし何らかの突然変異によって鳥の習性が変化し、卵を産んでも暖めることを放棄してしまったら。そんな変化は、子孫を残すのに圧倒的に不利だから、たちまちそんな鳥は淘汰されるはず。 ところが人間はその鳥の卵を鳥に代わって暖め子孫を増やしてやることにした。なぜか。鳥は卵を暖めることを放棄したかわりに、またすぐに次の卵を作りはじめる性質を持っていたから。こうして現在、私たち人間は、毎日排卵(注5)し、毎日のように卵を産みっぱなしにして平然としている鳥、すなわち、一年に300個以上も卵を産み続けるニワトリ、①ホワイトレグホンのを選びとった。たとえば②カイコ(注6)はもともとクワコという蛾の一種だった。人間が常時、餌を供給して人エ的な環境を与えた。すると幼虫は自分で餌を探索するのをサボるようになった。その分の余力をもっと別なこと、つまり絹糸を作り出す能力に振り向けるような種が選別された。かくして自分ではほとんど動けず、必要以上に大きく厚手の繭(注7)を作りだし、そこから出ることも飛ぶこともできないような昆虫が作り出された。カイコは人間がいないと生きていけない。 (中略) 人間がその進化のプロセスに介入し、自然になりかわって選択者としてふるまい、作りかえ、新たに生み出した生命。その生命たちはもはや人間なしでは生きていくことができない。一方、人間もまたそんな生命に助けられ、あるいは支えられて生きている。これは人間と人間が作り出した生命との新たな共生関係とも呼べる。 人間が登場して以来、進化の歴史は新しい局面を迎えた。人が作りかえたいのち。それに対して人間はきちんと責任を取らなければならない。 (注1)誤植:ここでは、ずれ (注2)ランダムに:偶然に (注3)淘汰される:ここでは、滅びる (注4)専心する:集中する (注5)排卵する:ここでは、体の中で卵を作る (注6)カイコ : 絹糸を作り出す虫 (注7)虫が自身を包むための球状の渡い

13. 筆者によると、自然界で子孫を残した生物はなぜ子孫を残せたか

1. 自然環境に合わせて自身を変化させたから。

2. 自身に適した自然環境を選んで移動したから。

3. DNA が複製されるときに、ずれが生じなかったから。

4. DNA に生じた変化が、たまたま自然環境に合ったから。

14. ホワイトレグホンについて、筆者はどのように述べているか

1. 卵を産んでも暖めない。

2. 一度に多くの卵を産む。

3. 産んだ卵をほかの烏に託す。

4. ほかの鳥より卵を暖める時間が短い。

15. カイコについて、筆者はどのように述べているか。

1. 身動きが取れないため、絹糸が多く作り出せなくなった。

2. 人間が餌を与えることで、絹糸を作ることに専念するようになった。

3. 生きるエネルギーの大部分を、餌を食べることに費やすようになった。

4. 人工的な環境を与えた結果、絹糸を作るという新しい能力を獲得した。

16. 筆者が言いたいことは何か。

1. 人間が作りかえた生物は、本来の姿に戻さなければならない。

2. 人間はあらゆる生物と新たな共生関係を築くべきだ。

3. 人間は生物の進化のプロセスに介入するべきではない。

4. 人間は作り出した生命との共生関係を維持しなければならない。

以下は、十代の若者に向けて書かれた文章である。 だれでも、自分が自分であることを望み、個性的であろうと願っている。そしてその一方では、自分が他のみんなと違った、自分であることを恐れている。 本当は、「個性的」であろうと思って、個性的になれるものでもない。それはたいてい、「個性的」といわれる一つの型に、自分をあてはめていることだったりする。人間にとっては、「個性的であれ」などと言われても、どうしてよいかわからないものであって、「個性的」とよばれる型を持ったほうが楽なのだ。しかしそれは、本当に個性的なわけではない。 それでも、青年期に向けて、個性的であろうと試みることは、よいことだ。かりにそれが、一つの型にすぎなくても、あるいは、個性的であろうとして挫折しり、「個生的であることから逃避することも含めて、自分にとって個性とはと、考えるのはよいことだ。それは、自分が自分であることの、あかしでもある。 そこでは、ときに悩むことがあったり、どうしたら個性的な人間になれるかと、模索することもあるかもしれない。それはじつは、「個性的」であること以上に、自分というものを意識していく、一つの過程である。そうした意味では、「個性的」であるかどうかなんて、本当はたいしたことではなくて、自分というものが確立していくことが、大事なこととも言える。 そしてじつは、個性というものは、人間のひとりひとりに備わったもので、その個性がありのままに出ていることが、本当の意味で個性的である。むしろ、本当の自分が出せないから、没個性的にもなるのだ。 もちろん、人間はまわりの社会を気にするものであって、自分をよそおうことも含めてしか、社会のなかで存在できない。無理につっぱって、自分のよそおいを捨てようとしても、捨てきれるものではない。そうした、社会とのかかわりも含めて、自分というものはある。 たいていの場合、つっぱったり、いじけたりしていては、自分の個性は発揮できない。つっぱるまいとするのが一種のつっぱりだったり、いじけまいとしてそのことにいじけたり、なんてことまで問題にしだすと、ちょっと言葉の遊びみたいになるが、ま、そうしたことまで含めて、気楽に自分であるようにしなくては、本当の意味で個性的にはなれないものだ。 そして、ありのままの自分を出すことへの不安が、「個性的」を一つの型にしたり、あるいはそうした型から逃れる道へ向かわせたりもする。 それでも結局、自分とはありのままの自分しかない。それを自覚したとき、きみは個性的なきみになる。

17. よいことだとあるが、なぜか。

1. 個性的である必要はないと気づくから。

2. 挫折したり悩んだりする経験が個性を作るから。

3. 自分という人間を意識することになるから。

4. 自分にあてはまる個性の型を見付けられるから。

18. 個性について、筆者はどのように考えているか。

1. 自分から社会とかかわることで、意識できるものだ。

2. 他人と比較しなければ、自然に発揮できるものだ。

3. なりたい自分を意識すれば、自然に身につくものだ。

4. 求めて得るものではなく、初めから持っているものだ。

19. 筆者が最も言いたいことは何か。

1. 自分の個性を模索すべきだ。

2. 自分自身でいることが大事だ。

3. ありのままの自分を出せなくてもいい。

4. 型に縛られない生き方をしたほうがいい。

人間の生存に不可欠なのは衣食住ですが、人問というのは、それだけでは生きていけない生きものです。衣食住に加えて何が必要かというと、それは自尊心です。自尊心というと、高慢さを連想して、悪いイメージを持っている人が多いようですが、私がここで言う自尊心とは、「自分には生きていくだけの価値がある」と思うこと、極端に言えば、「この世界のなかでいくらかの場所を占領し、食べものを食べ、水を飲み、空気を吸って生きていてもかまわないのだ」と思うことです。そう信じられなくなったとき、私たちは生きつづけるために必要な気力を失い、ときには命を絶つことさえあります。 じつは、人間のさまざまな行動は、この自尊心の動きに支配されているのだと考えると、とてもよく理解できます。私たちに、一生にわたる自尊心の①基盤を与えてくれるのは、言うまでもなく、幼いときに育ててくれる親や、それにかわる人たちの、無条件の愛情です。幼い子どもにとっては、自分の家族が全世界ですから、そのなかで大切にしてもらえば、自分の価値を信じるのはたやすいことです。しかし、そこで与えられるのは基盤にすぎず、保育園、幼稚園などの集団に入ると、親の愛の上に築いた自尊心はもろくも崩れてしまいます。自分とっては絶対であった親が、世の中のたくさんの人たちの一人にすぎないのなら、その親に保証してもらった自分の値打ちも、ちっぽけなものにすぎないことになるからです。 そこから、子ども自身による、自尊心回復のための戦いがはじまります。幼い子どもというのは、無邪気な会話をしているかと思うと、親の持ちものの自慢をしたり、何かを持っていない子をのけものにしたりといった、「子どもらしくない」と言いたくなるようなふるまいをはじめるものです。しかしこれらは、子どもなりの自尊心回復の手段なのであって、その意味ではきわめて②「子どもらしい」のです。不幸にして家庭の愛情がじゅうぶんでなかったり、「いい子」でいないと愛してもらえなかったりする子どもたちは、すべてを自力で獲得しないといけませんから、とりわけ競争での勝ち負けにこだわることになりがちです。子どもたちのそんな様子に、大人はつい眉をひそめたくなりますが、生きるために自尊心がどれほど必要かを考えれば、無理のないことだと理解できます。 (注1)のけもるのにする:仲間はずれにする (注2)眉をひそめる:不愉快な気持ちを表す

20. 筆者は、①基盤は何によって築かれると言っているか。

1. 食べ物と水がじゅうぶんに与えられることによって。

2. 子どものころに親や周囲の人に愛されることによって。

3. 幼いときに自分の家族が一番だと信じることによって。

4. 生きていくために必要な気力を持ち続けることによって。

21. 筆者は、子どもが集団に入ると、なぜ自尊心が崩れると考えているのか。

1. 幼い時に受けた無条件の愛情は幼稚園や保育園では必要がないから

2. 親から愛されなかったために、他の人たちとはうまくいかないから

3. 幼稚園や保育園では親の愛情ではなく、他の人の愛情を受けるから

4. 親に保証してもらっていた自分の価値が小さいものだと感じるから

22. 「子どもらしい」とあるが、著者は、何が子どもらしいと言っているのか。

1. 愛情がじゅうぶん与えられていていい子でいられること

2. 親の自慢などはしないで、無邪気な会話をしていること

3. 競争での勝ち負けにこだわらない子どもらしいふるまい

4. 自尊心を回復するための子どもらしく見えないふるまい

23. 筆者は、子どもが成長するためにはどんなことが大事だと言っているか。

1. 親の愛情によって保証してもらった自分の価値を、自分の力でもう一度獲得すること

2. 自分の行動が自尊心の働きに支配されていることを理解して、ふるまいに気をつけること

3. 保育園などの集団生活の中で決められる自分の値打ちを、子ども自身が受け入れること

4. 友だちをのけものにしたり親の自慢をしたりしないで、他の人の価値を尊重すること

私たちは、その時の状況や、周りの人のまなざしに合わせるように、行動を決めていることがある。人は一人の時の行動と、人に見られている時とでは行動が変わる。誰かのまなざしを気にして動くのである。そして、多くの人々が生き交う街は、皆が皆に視線を向け合う「まなざしの集合体」と言える場所だ。そんな場所では何が適切な行動で、何が不適切な行動なのかという暗黙の公共性が生まれてくる。まなざしの集合によってそこに社会規範が生まれ、それは生活の型となって私たちの認識を導く。 こうした社会規範や公共性は、かつてはその場所での営みの中で自然に生まれてくるものであった。同じ土地で、たくさんの人が争わずに仲良く生活するためにひつようだからである。それがはっきりと明文化されていったものが、法律や制度がたくさんあるように思える。「街角でギターを鳴らしてはいけません」、「路上で物を売ってはいけません」、あげくの果てには、「公園でキャッチボールをしてはいけません」ということになる。 一体どういう意味があるのか明確ではないルールは単なる記号だ。それがなぜダメなのかという理由が共有できないまま、ルールは押し付けられて従っていることがある。そうやって与えられているルールに、自分でいちいち判断せずに従っていると、今度はそれが無意識の型となってくる。 なんとなく街を眺めて、なんとなくその場の型に従っていると、そのうちに周りの物事に対する疑問は次第に薄れていくのである。私たちは、なぜその行動をしているのか、なぜその場所にそのルールがあるのかを改めて考えなくなる。そうすると今度は物事の判断基準が「ルールに従っているかどうか」に変わってしまう。まなざしが集まるからルールが生まれるのではなく、決められたルールにまざしを合わせることになる。 ルールとは私たちが共有している記号である。街ではどういう振る舞いが共有されていて、どういう行動は許されないのか。それに対して街の人々が想像したことが集合した結果として、取り決められるものである。しかしそれは繰り返される間に、だんだんと単なる記号になり、私たちの行動や認識も、単なる方型にはまっていく。だからこそ、もう一度それに正しくまなざしを向けなおすためには、その想像の型をいったん外して、全く違う型を取ってみることが重要なのである。 (注)あげくの果てには:そして最後には

24. かつての社会規範や公共性について、筆者はどのように述べているか。

1. 自分自身よりも、周りの人を優先するという考えに基づいていた。

2. 同じ土地の人々の間でも、一様に認識されているものではなかった。

3. 同じ土地で人々と争わずに生活していれば、自然に身壬についてくるものだった。

4. ともに生活するうえで必要なものとして同じ土地の人々の間で自然に発生した。

25. 無意識の型となってくるとあるが、どういうことか。

1. 法律や制度に合わせることが、特に難しいこと・ではなくなってくる。

2. 法律や制度の必要性を考えずに、従うべきものとして認識してしまう。

3. 法律や制度の意味が分からなくなり、守る必要性を感じなくなってしまう。

4. 法律や制度の意味を理解していなくても、人々の間で共有することができる。

26. 筆者が言いたいことは何か。

1. ルールは時代の変化に合わせて変えていくことが大切だ。

2. ルールの有無にかかわらず、自身が正しいと思う行動をすべきだ。

3. なぜそのルールがあるのかを考えて、行動することが大切だ。

4. これまでのルールに反している行動でも、社会の中で許容していくべきだ。

例えば、3年間ずっとノーミスでやってきた輪田くんが、はじめてミスを出した。 3年前からずっとその仕事ぶりを見てきた上司と異動していきなり輪田くんのミスに出くわした上司と、輪田くんへの印象は同じだろうか? 両者のミスの「情報占有率」がちがう。つまり、3年間のつきあいの中で、ミスが占める割合と、たった一回初めて輪田くんと接した中で、ミスが占める割合と。 相手は、あなたが過去からずっと積み上げてきたすべての情報で、あなたを判断するのではない。結局は、その時相手が持っている情報だけで判断される。その中で、いい情報の占める割合が多ければ「いい人だ」となる。 あなたが「優しい人」で10年間怒ったことがなかったとしても、10年ぶりに起こった時、たまたまでくわした初対面の相手にとっては、それが100%だ。あなたを「恐い人」だと思う。 自分にふさわしい「メディアカ」を相手の中に刻むため、ちょっと「情報占有率」を意識してみるといい。 コミュニケーションでは、出会いから始まって、相手から見たあなたの「メディアカ」が決まるまでの間が肝心だ。つまり、初めの方が慎重さがいる。ここで、かっこつけるのでもなく、でも、あなた以下にもならず、等身大のあなたの良さが伝わるのが理想だ。 いつも質の高い仕事をしているなら、初めての仕事先に対して、決していつもの質を落としてはいけない。ふだん静かな人なら、初対面の相手にも、奇をてらったりせず、普段どおり静かにしていればいい。自分にうそのないふるまいをする、ということは、初対面の相手にこそ大切だ。 さて、ここで問題なのは、普段とても穏やかなあなたが、その日はたまたま嫌なことが重なり、攻撃的になっているという場合だ。自分にうそのないということで、相手にきついことを言ってしまったらどうだろう。あなたにとっては、年に一回の、「たまたま不機嫌な日」でも、相手にとっては、あなたに関する情報の100%になる。 初対面の相手、まだ付き合いの浅い相手には、すこし慎重になって考えてほしい。 何が、自分にうそのないふるまいか?自分の正直な姿を伝えるとはどういうことか? 日ごろの99%穏やかなあなたなら、1%異常よりも、いつもの穏やかさを伝える方が、結局は、正直な姿を伝えている。相手の中に、あなたの実像に近い「メディアカ」が形成されるからだ。初対面の相手にこそ、平常心であること、普段どおりにやることが大切だ。 (注1)等身大の:誇張のない (注2)奇をてらう:変わったことをして、他人の気をひこうとする

27. 筆者によれば、上司にとって輪田くんのミスの「情報占有率」が上がるのはどのような場合か。

1. 付き合いの長い上司との関係の中で、輪田くんがミスを1回した場合

2. 付き合いの長い上司との関係の中で、輪田くんがミスを3回した場合

3. 付き合いの短い上司との関係の中で、輪田くんがミスを1回した場合

4. 付き合いの短い上司との関係の中で、輪田くんがミスを3回した場合

28. 自分にうそのないふるまいとはどのようなものか。

1. その時々の素直な気持ちを表すこと

2. いつも正直に自分の考えを伝えること

3. いつもどおりの姿を見せること

4. うそをつかず正直に話すこと

29. 筆者は、なぜ初対面の相手に慎重になったほうがいいと述べているのか。

1. 普段通りの態度では、相手に自分の良さを十分に伝えられないから

2. 自分に関する一部の情報で相手がすべてを判断するかもしれないから

3. 相手の性格が自分と合うかどうかまだよくわかってないから

4. 初対面の相手には慎重な姿が実像だと思わせる必要があるから。

30. 自分の「メディアカ」について、筆者はどのようにするのがよいと述べているのか。

1. 相手に自分の「メディアカ」が正確に伝われるように意識する。

2. 相手に普段の自分以上の「メディアカ」を伝えるようにすること。

3. 相手に刻まれた自分の「メディアカ」を気にせず平常心でいる。

4. 相手に見せる自分の「メディアカ」を下げないように静かにしている。

なんであれ無我夢中になって時間を忘れるような体験は、誰にとっても奇跡のような時間である。そんな奇跡を可能にするものこそ、実は「独り」の時間なのである。現実世界の他者との接点が完全になくなり、日常のあれやこれやが背景に没する(注1)とき、人は自由の翼を羽ばたかせる。 しかし、現実のもろもろ(注2)が想像カや感性を邪魔しているかぎり、そうした無限といってよい自由はやってこない。ヒマで死にそうな人にも、あの、わくわくする自由は訪れない。①あの自由を取り戻すためには、周囲の人たちとのつながりを完全に忘れてしまわなければならない。あるいは、つながりを完全に絶ってまでも、そこに没入したい(注3)世界が存在しなければならないということである。 独りは、「ひとりぼっち」である。孤独であり、寄る辺ない(注4)状態だ。中学生のなかには――もちろん高校生や大学生のなかにも――、ひとりぼっちになるのが怖くて、電話機から離れられない人も多い。一瞬でもスマホ(注5)を手放すのが怖くて仕方がない人たちのことを聞くと、私は「かわいそうだな」と思う。彼らは人とのつながりがなくなり、ひとりぼっちの深みに沈むのが怖くてたまらないのだ。たぶん、彼ら・彼女たちは孤独の効用を知らないし、ひとりぼっちゆえの自由も知らない。孤独になるところから始まる創造的な時間の使い方もまったく知らない。だから、彼ら・彼女たちにとって、孤独はきっと闇のように暗くて深いのだ。 そんな、②かわいそうな子どもたちをどうすれば助けてあげられるだろうか。独りを恐れてはならないと言ってあげるべきだろうか、独りになることは怖くないと言っても、きっと彼ら・彼女たちには通じない。たぶん、その恐れているものこそ最も貴い宝なのだと教えてくれる何かに出会うことが必要なのだ。狐独が闇ではなく、光であり、途方もない創造性の源泉であることを知る機会さえあればいい。多くの人々を感動させてきた文学作品や、感嘆の声を上げるしかない美術作品の数々。それらは原稿用紙に向かい、キャンバスと向き合った孤独な者たちの手から生まれたものだ。 (中略) もちろん、孤独でありさえすれば③偉大な作品が生まれるわけではない。孤独は創造性にとって十分条件ではなく、必要条件なのだ。だから、いきなり深遠な思索やらオリジナルな発想やらがどうして生まれるのか、と聞かれても、答えようがない。しかしそういう傑作が生まれ落ちた素地(注6)にあるのが「独り」の状態だということは知っておくベきだろう。 孤独に対して、あまりよくないイメージがあるなら、そのイメージを払拭し、ポジティヴな(注7)イメージに転換しておかなければならない。孤独は創造の源泉であり、夢中になれる悦ばしい時間の素地である。 (注1)背景に没する:ここでは、意識されなくなる (注2)もろもろ:さまざまなこと (注3)没入する:熱中する (注4)寄る辺ない:頼るものがない (注5)スマホ:コンピュータの機能を持っている携帯電話。スマートフォン (注6)素地:もと (注7)ポジティヴな:肯定的な

31. あの自由とはどのような状態か。

1. 現実世界と想像の世界が混じり合った状態

2. 独りの時間が十分にある状態

3. 自由に時間が使えるような暇な状態

4. 夢中になって時間を忘れるような状態

32. かわいそうな子どもたちとあるが、何がかわいそうなのか。

1. ひとりぼっちを怖がっていること

2. 自由を求めようとは思っていないこと

3. 人とつながっていても自由だと思っていること

4. 孤独になることは恐ろしいと教えられてきたこと

33. 偉大な作品について、筆者が述べていることに合うのはどれか。

1. 孤独になれば、人と違う発想が生まれる。

2. 孤独な状態がなければ、偉大な作品は生まれない。

3. 孤独な者でなければ、偉大な作品に共感できない。

4. 孤独な時間が多ければ、偉大な作品を生むことができる。

34. 筆者が言いたいことは何か。

1. 創造的な時間の使い方を知るには孤独になるべきだ。

2. 孤独は創造力を生み出すための貴い機会だ。

3. 孤独になることで、人とのつながりのよさがわかる。

4. 孤独のよくないイメージを消し、自由との違いを認識すべきだ。

交換と交易(注1)の歴史は非常に古く、何万年も前までさかのほれるようだが、貨幣経済は進化史的に言えばごく最近のことである。どんなものにも変えることができる抽象的な価値とは、とんでもない発明だと思う。 (中略) それは、貨幣というものが、確かに人間の生活を変え、世界を見る目を変え、欲望のあり方を変え、人生観を変え、結局のところ人間性を変えてきているように思うからだ。貨幣経済の真っただ中で暮らしている私たちにとって、貨幣は当たり前の存在だが、ヒトという生物にとって、こんなものの存在は決して当たり前ではなかった。そして、大量の砂糖や脂肪の存在に私たちの脳も体もうまく対応できていないのと同じく、この貨幣という存在にも、実は私たちの脳はうまく対応できていないのではないだろか。 ヒトが狩猟採集生活をしていた頃、ヒトは自分たちの手で集められる食料を食べ、自分たちの手で作れる道具や衣服を使って暮らしていた。できることは限られていたし、望めることには限度があった。まさに等身大(注2)の生活である。それ以上の世界の可能性を知らなければ、欲望にも限りがあった。「欲しい物」というのは具体的な物であり、それを手に入れる方法は限られていた。そして、ヒトはそのことを知っていた。 しかし、何にでも交換できる抽象的な価値が手に入るようになると、それ自体を得たいという新たな欲望が生まれる。「金の亡者」(注3)は、何か特定の物が欲しいから貨幣を得るのではない。ともかく貨幣をためることが何にもまして大事な目的なのだ。そこには限度がない。 また、何にでも交換できる抽象的な価値は、人間関係を買うことも、幸せな気分を買うこともできる。貨幣がない時には、人間関係を築いていなければできなかったことが、個別の人間関係抜きに手に入る。逆に、貨幣なしではほとんど何もできない。 そして、今では、貨幣を手に入れることは一つの職業につくことである。一つの職場で一つの仕事をし、その対価(注4)に貨幣をもらう。そうすると、ヒトは、自分が独立して生きていると思う。本当は、今でも狩猟採集生活時代と同じように、みんなで共同作業をすることで生きているのだ。農家がいなければお米も野菜もない。物流や商店がなければ、買うことができない。医者がいなければ病気を治せない。学校の先生がいなければ教育ができない。今でも、みんなでともに生き、生かされて暮らしているのだが、それぞれに貨幣が介在しているので、共同という感覚がなくなる。便利なものには必ず負の面がある。ちょっと立ち止まって考えてみた方がよい。 (注1)交易:ここでは、取り引き (注2)等身大の:その人の状況や能力に合った (注3)金の亡者:異常に金銭に執着する人 (注4)対価:ここでは、報酬

35. とんでもない発明だと思うのは、なぜか。

1. 人間の脳の対応力を徐々に変えてきたから。

2. 人間に抽象的な思考を強いるようになったから。

3. 多様な人生観や人間性を生み出してきたから。

4. 生活から考え方まで人間のあり方を変えてきたから。

36. 狩猟採集生活をしていた頃のヒトの欲望について、筆者はどのように述べているか。

1. 自らたちの日常しかしらなかったから、欲望は限られていた。

2. 自らの経験から欲望には限りがないことを知っていた。

3. 多くの欲望を持っていたが、それを満たす手段は限られていた。

4. 生きることが最優先だったから、欲望を持つ余裕がなかった。

37. 筆者によると、ヒトは貨幣を手に入れてどうなったか。

1. 人間関係に関心がなくなった。

2. 貨幣自体が欲望の対象になった。

3. 特定の物に対する欲望が強くなった。

4. 何が本当に欲しいのか分からなくなった。

38. 筆者が最も言いたいことは何か。

1. 貨幣を得ることだけが働く意味ではないと自覚にすることが必要だ。

2. 貨幣があることによって共同という感覚が必要ではなくなっている。

3. 貨幣によって失われている共同という感覚を忘れてはいけない。

4. 貨幣には人間関係を壊すという負の面もあることを忘れてはいけない。

多くの人が今の社会は生きづらいと言う。 長いこと農林業者や職人、漁業者達に会って話を聞いてきた。明治生まれも大正生まれも昭和の方もいた。その方々も、自分たちは生きやすく、楽しい人生を送ってきたとは言わなかった。 私が会った多くの方々は徒弟制度(注)のなかで技を身につけ生き方を学んできた人達だった。林業者達は親方や先輩に仕えて、道具の使い方や山や木の性質、癖を読み取る方法を覚えて一人前だった。漁師達もそうだ。父や兄の船に乗り込み、飯炊きから始めて、その日の水温や風の流れを読み、漁場を決め、そこに合った道具を選び、漁獲を得るようになる。 教える親方や先輩達は「見て学べ」と言うだけだった。自分の指先や感覚、体が覚えた技を伝えるには言葉はあまりに幅が狭すぎるからだ。 (中略) やがて一人前になり、腕を上げれば、効率は上がり、利益も出るようになるが、目指す到達点が遠いことに気づく。だから日々の①努力を惜しまなかった。努力だけが自分を補ってくれる手段だったからだ。努力は辛いものであったが、喜びも伴っていた。積み重ねれば明日があり、報われることがあったのだ。 しかし、②時代は変わった。時間のかかる訓練を避け、効率の向上を目指した。効率こそが価格競争に勝てる最高の武器だと考えたからだ。工場はもちろん、漁師は機械を満載した高速船を手に入れ、農業者はトラクターを買った。森林の伐採も機械がする。 世の仕組みも、人々の考えも努力や修業、技を持つ体を不要なものとしたのだ。技はデータとして機械に組み込まれ、人間に付属するものではなくなってしまった。修業は人を磨き、生き方を支えるものであったのだが、それがなくなった。 今、人は働かされていると感じている。そこでは隠された能力が引き出されることがない。見つけ出す過程がなくなったからだ。報いは金銭であり、喜びが薄っぺらなものになってしまった。働くことの意味が変わったのだ。 働くことと生きることは人生の裏と表であった。生きづらい世の中と思う人が多いのは、働くことに喜びが伴わなくなったからではないか。私の会ってきた人々は自分の仕事を語るとき、苦しかったとは言いながら、表情に生気があり、誇りがにじんでいた。 社会が変わっても人は生きていかねばならない。働かねばならない。機械を捨てろというのではない。効率も必要だ。しかし、新しい時代の中で働く意味と喜びを見つけ出さなければ、生きづらさが増すばかりだ。 働くことの喜びをどうやって復活させるのか。お手本はほんのこの間までの日本にある。たくさんの方達の話を聞いてきてそう思う。 (注)徒弟制度:ここでは、弟子として技を習得する制度

39. 親方や先輩が技を言葉で教えなかったのはなぜか。

1. 技を伝える言葉を理解させられないから

2. 技は言葉では十分伝えられないから

3. 技は言葉で伝えても身につかないから

4. 技は時間がたてば自然に身につくものだから

40. 努力を惜しまなかったのはなぜか。

1. 努力を積み重ねなければ、辛さが喜びに変わらないから

2. 努力を積み重ねれば、報われた時の喜びが大きくなるから

3. 努力をして腕を上げれば、利益が出るから

4. 努力をし続けなければ、目指すものに近づけないから

41. 時代は変わったとあるが、人の働き方はどう変わったのか。

1. 修業に努力が求められなくなった。

2. 技を習得することが必要とされなくなった。

3. 機械の出現で効率的に修業ができるようになった。

4. 誰もが機械に精通することを求められるようになった。

42. 筆者の考えに合うのはどれか。

1. 生きづらい社会であっても、誇りを持って生きていこう。

2. 修業を通して働く意味と喜びを得られた時代に戻るべきだ。

3. 時代が変わっても、働く意味と喜びを見つけて生きていこう。

4. 働く意味や喜びを大切にしながら、効率を追求していくべきだ。

人間はおかしなもので、自分が苦労して作ったり、特定の誰かが自分のために作ってくれたと思うと、より深い満足感を覚えるものらしい。それは恋人が編んでくれたセーターをプレゼントされた時のことを思えば、容易に想像できよう。モノにではなく、そこに込められた「思い」こそが人を満足させ、幸福にするのである。 だとすると「労働や生産」を家庭から切り離すことで成立する大量生産・大量消費システムの進展は、身の周りからそうした「思い」や「かけがえ(注1)のなさ」を消し去っていく過程だったと言えなくもない。 かつて何でも手作りしていた時代には、身の周りに手作りのモノやサービスがあふれてたため、金銭を払って得る商品やサービスにそんな「思い」や「かけがえのなさ」を要求する必要もなかった。人々が商品に求めたのは単に機能と安さだった。だからこそ、均質な機能を持つ商品を安く供給できる大量生産が有効だったのである。 しかし、ある程度商品が行き渡ると①事情は違ってくる。人間は持たざる時には人並みを求めるが、ひとたび人並みになるや、今度は人との違いを求めだし、人と同じ商品では満足できなくなるからだ。この隘路(注2)を現代の資本主義はデザインによってモード流行を作りだしたり、特定の商品を持つことが社会的地位の象徴であるかのように思わせることで切り抜けてきた。 頻繁に繰り返される自動車のモデルチェンジや、去年買った服を今年着るのが恥ずかしいくらいに目まぐるしく変わる流行のファッション。機能的には軽自動車で十分であるにもかかわらず、乗っている自動車の大きさや豪華さによって自分の価値が判断されるような気がして、より高級な車を買いたくなるのもそのためだろう。 (中略) ただ、モンによって自分を他と差別化するというこのやり方は、②深刻な矛盾に陥らざるをえない。つまり、社会に流布された豊かさや幸福のモデルに自分を合わせることで個を主張するわけだから、自分を個性化しようとすればするほど本当の自分の色を消し去り、逆に没個性化していくという矛盾である。 消費財がほぼ万人に行き渡り、しかも所得の大きな格差も無くなって、モノによって自分を他者と差別化することが困難になりつつある現在、この矛盾はこれまでになく鮮明になってきている。もう買いたいモノがないという現状は、その端的な現れだろう。こうした消費社会の矛盾を自覚した時に人が立ち戻る場所は、やはり「思い」とか「かけがえのなさ」しかないような気がする。 記号と化したモノに人が操られている現状を脱し、人がモノを使う本来の姿に戻るためにも、満足感や幸福感は何によってもたらされるのか、今一度考える要があるのではないか。 (注1)かけがえのなさ:他に代わりがないほど貴重だあること (注2)隘路:ここでは、難しい状況

43. 筆者によると、大量生産のシステムが普及したのはなぜか。

1. 消費者には手作りのモノは価格が高く手が届かなかったから

2. 消費者が商品に金銭を払うことを惜しまなかったから

3. 消費者が手作りのモノでは満足できなかったから

4. 消費者が便利で安価な商品を欲していたから

44. 事情は違ってくるとあるが、どのように建ってきたか。

1. 人と違う商品を持つことに意味を見いだすようになった。

2. 人と違う商品を持たなくても個性を表せるようになった。

3. 特定の商品を求めることに疑問を感じるようになった。

4. 特定の商品を持つことでは自身の価値を高められなくなった。

45. 深刻な矛盾とあるが、どういうことか。

1. 人との違いを出そうとしているのに、人と似てしまう。

2. 買いたいモノはないのに、お金を使いたくなる。

3. 社会のモデルに自分を合わせようとするほど、合わなくなる。

4. 本当の自分を隠そうとするほど、自分が出てしまう。

46. 筆者の言いたいことは何か。

1. モノを持たないことで消費社会の矛盾を自覚すべきだ。

2. モノを持てることの幸福感を味わうべきだ。

3. モノに込められた「思い」を再認識すべきだ。

4. モノの持つ本来の機能を再認識すべきだ。

私は、科学が再び文化のみに寄与する営みを取り戻すべきと考えている。壁に飾られたピカソの絵のように、なければないで済ませられるが、そこにあれば楽しい、なければ何か心の空白を感じてしまう、そんな「無用の用」としての科学である。世の中に役立とうというような野心を捨て、自然と戯れ(注1)ながら自然の偉大さを学んでいく科学で良いのではないだろうか。好奇心、探求心、美を求める心、想像する力、普通性への憧れ、そのような人間の感性を最大限練磨(注2)して、人間の可能性を拡大する営みのことである。 むろん、経済一辺倒の現代社会では、そんな原始的な科学は許されない。一般に文化の創造には金がかかる。ましてや科学は高価な実験器具やコンピューターを必要とするから一定の投資をしなければならず、そうすれば必ずその分の見返りが要求される。「文化より明日のコメを」という声も絶えることがない。社会もムダと思われるものに金を投ずるのを忌避(注3)するからだ。それが「役に立つ」科学とならねばならない要因で、科学者もセールスマンのように次々に目新しい商品を用意して社会の要求に迎合していかねばならなくなる。それを逆手にとって、あたかも世の中を牛耳(注4)っているかのように尊大に振舞う科学者すら登場するようになった。これほど社会に貢献しているのだから、もっと金をよこせ(注5)というわけである。金を通しての科学者と社会の綱引き(注6)状態と言えるだろうか。 それでいいのかと改めて考え直してみる必要がある。確かに科学には金がかかり、それには社会の支持が欠かせない。「無用の用」にすらならないムダも多いだろう。 しかし、ときに科学は世界の見方を変える大きな力を秘めている。事実、科学はその力によって自然観や世界観を一変させ、社会のありように大きな変化をもたらしてきた。社会への見返りとは、そのような概念や思想を提供する役目にあるのではないか。それは万に一つくらいの確率であるかもしれないが、科学の営み抜きにしては起こり得ない貢献である。むろん、天才の登場を必要とする場合が多いが、その陰には無数の無名の科学者がいたことを忘れてはならない。それらの積み上げがあってこそ天才も活躍できるのである。 今必要なのは、「文化としての科学」を広く市民に伝えることであり、科学の楽しみを市民とともに共有することである。実際、本当のところ市民は「役に立つ科学」ではなく、「役に立たないけれど知的なスリルを味わえる科学」を求めている。市民も知的冒険をしたいのだ。 (中略) 科学の行為は科学者という人間の営みだから、そこには数多くのエピソードがあり、成功も失敗もある。それらも一緒に紡ぎ合わせることによって「文化としての科学」が豊かになっていくのではないだろうか。それが結果的に市民に勇気や喜びを与えると信じている。 (池内了『科学の限界』による) (注1)戯れる:ここでは、触れ合う (注2)練磨する:鍛えて磨く (注3)忌避する:嫌って避ける (注4)牛耳る:思い通りに動かす (注5)よこせ:くれる (注6)網引き状態:ここでは、引っ張り合い状態 (注7)紡ぎ合わせる:ここでは、組み合わせる

47. 筆者によると、原初的な科学とはどういうものか。

1. 一見無用と思われるものを、世の中に役立てようとするもの

2. 人間の可能性を拡大するために、なくてはならないもの

3. 自然の中で感性豊かに生きるために、自然を学ぼうとするもの

4. 自然の偉大さを学び、人間の感性を豊かにしていくもの

48. それでいいのかと改めて考え直してみる必要があるとあるが、筆者は何を考え直してみる必要があると述べているか。

1. 科学の営みの中に社会に寄与しないムダが多いこと

2. 社会が科学に投資しなくなってきたこと

3. 社会も科学者も科学を経済的観点からしか見ていないこと

4. 社会も科学者も科学に見返りを求めるべきではないと考えていること

49. 筆者は科学が社会にどのような貢献をしてきたと考えているか。

1. 無数の科学者の積み上げから天才を登場させてきた。

2. これまで主流とされてきたものの見方を覆し変化をもたらした。

3. 社会の要求する新しい商品を次々に提供してきた。

4. 社会の役に立たないことにも価値があると人々に認識させてきた。

50. 筆者が言いたいことは何か。

1. 市民と科学の楽しみを共有することが「文化としての科学」の発展につながる。

2. 市民が知的好奇心を高めればい文化としての科学」が豊かになる。

3. 「文化としての科学」と「役に立つ科学」が共存することで社会が豊かになる。

4. 「文化としての科学」とともに「役に立つ科学」を市民に伝えることが必要だ。

このところ、「○○倫理」という言葉をしばしば耳にする。マスコミでは、政治倫理、企業倫理、メディア倫理などといった言葉はおなじみのものだろう。そうした言葉は、なにか問題が起きたときの掛け声のようなもので、空疎(注1)な常套句にすぎないのかもしれない。だが、漠然と、倫理といったものが必要だという気分が漂っているのは、事実であるように思う。 そうした雰囲気を受けて、倫理学では、応用倫理学と呼ばれる分野が急速に成長し、さまざまな倫理が提唱されつつある。 たとえば、生命倫理、環境倫理、ビジネス倫理に始まって、情報倫理、工学倫理、スポーツ倫理、さらには、遺伝子倫理、脳神経倫理、ナノ倫理、ロボット論理といった具合に、言葉を見ただけでは、内容がにわかには想像しにくいものまで登場している。 「なんでも倫理症候群」とでもいいたくなるほど、「○○倫理」が大はやりなのだ。どうやら、現代は「倫理的な時代」らしいのである。こうした倫理ばやりは、わたしのように哲学や倫理学を専攻する人間にとって、必ずしも喜ばしい事態であるわけではない。それは、倫理が空気のようなものだからだ。 普段、わたしたちが生活しているときに、空気を吸っていることをとりたてて意識などしない。生きていく上で空気が必要なことはわかってはいても、希薄になって、息苦しくでもならない限り、空気は意識されたりはしない。 倫理には、それと似たところがある。倫理がさかんに語られるのは、社会がそれまで通りにはいかず、息苦しくなっているような時代である。少なくとも歴史を振り返ってみると、「倫理的な時代」はいずれも価値観の大きな変動期にあたっていた。 つまり、それまで当然だと思っていた考え方や生き方が大きく揺らぎ、どう考え、どう生きたらよいのかわからないようなときに、倫理は求められてきたのだ。わたしたちが生きている現代は、そうした時代である可能性が高い。 この場合、一番の問題は、変動期の人間には、先が容易に見通せないことである。現在は、過去の歴史的な事例とは違って、どのような結果が待ち受けているか、あらかじめ知ることはできない。わたしたちは、そうした不確かさのなかで、現在を生きていかざるをえない。 もちろん、こうした事態を、わたしたちが新たな未来を切り開くのだと、積極的にいってみることはできるかもしれない。しかし、そうした積極的な態度や発言が簡単にはできないのが、「倫理的な時代」のとれあえずできるのは、が」あるのか、どのような問題が出てきているのかを知り、考えていくことである。 それが、現在を生きるということであるはずだ。 (注1)空疎:見せかけだけでしっかりした内容や実質がないこと。 (注2)な常套句:ここでは、中身のない形だけの言葉。

51. そうした雰囲気とあるが、どのようなことか。

1. 社会が倫理を求めている。

2. マスコミが倫理の必要性を訴えている。

3. 倫理学の価値が見直されつつある。

4. 倫理学が他の分野に応用され始めている。

52. 倫理と空気の似ている点について、筆者の考えに合うのはどれか。

1. 実体がわかりにくいので、意識されない。

2. 生きていく上で、常になくてはならない。

3. 必要だと感じなければ、意識されない。

4. 必要になっても、すぐには意識されにくい。

53. 筆者は「倫理的な時代」をどのような時代だととらえているか。

1. 新たな価値観が生まれ、社会に受け入れられている。

2. 従来の価値観が通用しなくなり、人々が生きる方向性を見失っている。

3. 倫理の価値が再評価され、次の世代に積極的に倫理を教えている。

4. 倫理自体に価値がないと考えられ、社会が大きく揺らいでいる。

54. 筆者は「倫理的な時代」を生きる人間にできることは何だと考えているか。

1. 積極的に発言し行動すること

2. 現在の経験を将来に生かすこと

3. 現状の問題を把握して考えること

4. 未来を切り開く方法を考えること

わたしは、暮らしや家族の中にある科学をテーマにして、雑誌に記事を書くことがあります。料理の科学、生活の中にある器具のしくみなどを取りあげて、科学を専門としない人たちにも関心を持ってもらえるよう記事づくりを工夫します。そんなとき①編集者の注文はこうです。 「一般の主婦の方々にとっつきやすくする(注1)ために、内容は科学のことであっても「科学」ということばは使わないでください。「科学」と聞いただけて引いてしまう(そのページを読むことをやめてしまう)人がけっこういますから」 これは、わたしにとってはむずかしい注文であることが多いのですが、編集者の言うことは、一般の人に対する情報発信の心構えとして、現時点では適切と言うほかありません。「科学」ということばを使うか否かが大きな問題なのではありません。 読者である「一般の人たち」も、発信する側である「編集者」も、科学に対して距離を感じているということであり、それは、現在の「科学技術」と②「それを使う人たち」の関係を象徴しています。作る側、発信する側は、当然その内容を熟知し将来の方向性を提案しますが、それを使う側の人は与えられたものを十分に理解せず「買う」という行動だけで受け入れていると言いかえられます。 (中略) 技術、そして科学技術は、その時代に生きている人々によって求められ発展してきたものであるはずですから、わたしたちはそれらの科学技術を使う主人公です。しかし、はたしてわたしたちの科学技術に対する理解は、科学の発展とともに進んでいるでしょうか...? たとえば、あなたの周りで、「科学はむずかしいから」と決めつけて、苦手だと思っている人はいませんか。あなた自身はどうでしょう。科学的理論と実用化のレベルが複雑で高度なために、一握りの人たちにしかわからないむずかしいものになってしまっているのは事実です。 専門家や技術者が作り出したものを、マニュアルの通りに使うことさえできれば、③そのしくみなどを知る必要はない、という人もいるかもしれません。 しかし、そのような使い方では、供給する側から示された技術の「良い部分」しか見えません。科学技術を提供する側からは「良い部分」しか聞かれないのだとしたら...。それらを使う主人公であるわたしたちは、与えられる情報だけではなく、科学的背景やしくみを少しでも知った上で、生活の中に取り入れるか、取り入れないのかを判断することが必要です。 良いこと(ベネフィット)も悪いこと(リスク)も考えながら科学技術とつきあっていく、その第一歩は、「知ること」です。 (佐倉純/古田ゆかり/リビング・サイエンス・ラボ「おはようからおやすみまでの科学」による) (注)とっつきやすくする:ここでは、受け入れられやすくする

55. 編集者の注文とあるが、編集者はなぜ注文したのか。

1. 読者が科学に苦手意識を持っていると考えているから

2. 読者が科学の専門的なことばを理解できないと考えているから

3. 読者が考える科学と暮らしの中の科学は違うと考えているから

4. 読者が持っている科学のイメージがはっきりしないと考えているから

56. 「それを使う人たち」について、筆者はどのように述べでいるか。

1. 科学技術は使っているうちに理解できると思っている。

2. 科学技術を使ってはいるが、理解しているとは言えない。

3. 科学技術を理解してはいるが、使いこなせていない。

4. 科学技術を理解しているつもりで使っている。

57. そのしくみなどを知る必要はないと考えることの問題点は何か。

1. マニュアルがないと製品が使えないこと

2. マニュアル以外の使い方ができなくなること

3. 供給する側の伝えたい情報が理解できないこと

4. 供給する側に都合のいい情報しか得られないこと

58. 筆者が言いたいことは何か。

1. 科学技術の知識を豊富に身につけることが大切だ。

2. 科学技術をマニュアルに頼らず使いこなすことが大切だ。

3. 科学技術を取り入れ、そのしくみを知ろうとすることが大切だ。

4. 科学技術を知り、生活に取り入れるかどうかを判断することが大切だ。

建築の設計をやっていると様々な職人に出会う。大小を問わずどの現場でも一人や二人、主役を張れる(注1)人がいる。 そうした人に出会うのが、現場に通う楽しみのひとつだ。長い時間、図面にばかり接していると、現実を離れて思考が一人歩きすることがよくある。そんな時、彼らからもらう情報がかけがえのない(注2)ものであることが分かる。我々が作り出す図面は、線で描かれた抽象的な記号に過ぎない。彼らは隣に触っている。経験則によって裏付けられた、物に近い、深くて確かな情報を持っている。 図面は人間の頭の中だけで作り出されたものだ。それを現実の建物に移し替えるには、木や鉄やコンクリートといった、物から手によって直接に得られる情報が不可欠だ。頭で生み出されたものは、思いこみや錯誤によって間違うことが多いからだ。 今はコンピューターと情報通信の時代だ。それにともなって、手を動かす機会がどんどん少なくなってきている。建築の設計でもCAD(コンピューター利用設計)化の勢いはすさまじい。しかし、その図面は、設計の全体を把握しにくい。きれい過ぎて、何であれ、すべてうまくいっているように見えてしまう。手を経ずに、頭の中だけで作業が完結してしまっているからだろう。 トレーシングペーパー(注3)に鉛筆で苦労をして描かれた旧来(注4)の図面は、そこに描く人の感情が入っている。うまくいっていないところは消しゴムで消し、描き直して修正していく。技術的に問題のあるところ、デザイン的にうまくいっていないところほど、線はにじみ、トレーシングペーバーは人の手の脂で汚れてくる。何回も描き直した個所は、しまいには擦り切れて穴が開いてしまうこともある。描いた当人の自信がなければ、鉛筆の線にもその迷いを見て取ることもできる。慣れてくると、図面上の線から、描いた人の経験的なレベルや人柄さえ分かるようになる。手書きの図面には、すてがたい様々な種類の情報が塗り込められている。均質な図面の向こう側に人の姿が見えにくい分、CAD では大きなリスクを見落とす可能性もある。 手から遠いコンピューターの出現によって、リスクの所在をかぎ取ることが、旧来の経験側では難しくなってきている。これは設計に限ったことではないだろう。今や情報通信とコンピューターはあらゆる分野に浸透し、社会全体を変えつつある。頭から生み出されたものが暴走している。リスクの所在が、より巨大で、見えにくくなった。 どこかでそれを、生身の身体を持つ人間の側に引き戻す必要がある。手から得られる情報は、効率は悪いが、現実の世界をまさぐって(注5)得られるものだ。その人の身体だけにとどまる固有に情報といってもよい。 忘れられつつある手の行き場を考えるべきだろう。 (内藤廣『建築のはじまりに向かって』による) (注1)主役を張る:ここでは、主要な役割を果たす (注2)かけがえのない:他に代わりがないほど貴重な (注3)トレーシングペーパー:ここでは、設計図を描くための紙 (注4)旧来の:昔からの (注5)まさぐる:手探りをする

59. そうした人に出会うのが、現場に通う楽しみのひとつだとあるが、なぜか。

1. 職人から得る情報で自分のやり方の正しさが確かめられるから

2. 職人たちの経験に基づいた信頼できる情報が得られるから

3. 様々な職人たちから建築設計の多様性が学べるから

4. 経験豊かな職人たちの仕事ぶりが見られるから

60. 鉛筆で描かれた図面について、筆者はどのように述べているか。

1. 設計の過程や描いた人に関する情報が得られる。

2. 経験を積んで設計に自信のある人にしか描けない。

3. 細部は分かりにくいが、全体は把握しやすい。

4. 情報を読み取りにくいが、描いた人の感情がこもっている。

61. 筆者は、コンピューターが社会にどのような影響を与えたと述べているか。

1. 多くの情報の中から必要な情報を選び出しにくくなった。

2. リスクの高い様々な種類の情報が氾濫するようになった。

3. これまでに得られた経験則が社会で必要とされなくなった。

4. どこにどのようなリスクが潜んでいるか把握しにくくなった。

62. この文章で筆者が最も言いたいことは何か。

1. コンピューター化によるリスクを経験則によって回避すべきだ。

2. コンピューター化による効率重視の風潮を改めるべきだ。

3. 手によってなされる仕事の伝統を守っていくべきだ。

4. 手によってなされる仕事の価値を再認識すべきだ。

たとえば、あなたが会社の中で企画部門に属し、①目標値を設定する仕事を与えられたとする。ここでは達成不可能な目標を設定したところで意味がないとされるから、外部環境や内部の状況を含め、諸々の要素を検討することになるだろう。その上で現状から考えて、達成可能かつできる限り高い目標を探ることになる。このとき、あなたが今後変わりうる外部環境を完璧に予想し、会社内部のすべてを完全に把握している存在であれば、目標を設定する仕事はこの上なく素晴らしいものだ。社員全員がこれに向かって全力を出せばそれでいいことになる。 しかし、実際にはそんなことはありえない。外部環境は予想もつかない方向に変わりうるし、社内では、上からの目が届かないところでアイデアを隠し持った人が必ずいる。固定化した目標は、不確定要素にまったく対応できないのである。しかも、こうした事前に予想ができない要素にこそ、大きなビジネスチャンスが転がっている。 だから目標を設定するならば、変化に対応する中で、各人の創意工夫の果てにやっと達成されるようなものでなければならない。しかし、事前にこれらをすべて盛り込むことはできるはずもないから、何となく納得感のありそうな落とし所(注1)を探すことになる。大人はこの落とし所という言葉が大好きなのだが、こんなものに意味があるはずもないのだ。これではすべての可能性を引き出すことができないのである。 これは個人としても閉じことである。 (中略) 試合直後の力士にインタビューをすれば、「明日の一戦をまた頑張るだけ」と答えが返ってくるだろう。ゴルフツアーの最終日を明日に控えたプロ選手でも、翌日のスコア目標などは口にしない。そんなことを考え始めれば、プレイが崩れ始めることを知っているからだ。 課それにもかかわらずビジネスになると途端にゴールをしようとするスポーよりも選が確定な要素が多いにもかかわらず、目標によって自分たちを縛りつけようとするのである。これにはかなり②違和感を覚える。 どんなことでも、周囲の状況はどんどん変わることが当たり前である。それにもかかわらず、自分だけ変わらないのはおかしい。過去に立てた目標によって自分を窮屈な存在にしてはいけないのである。もしどうしても目標を立てたいのであれば、ほとんど実現不可能ページ大10/標15時つべきだしもこれ自体はその達成方法を考えるのに役には立たない。自分が持つ可能性を大事にしたいのであれば、目の前のことだけに投入(注2)し、何かしらの(注3)変化を察知するにつけ、次のベストを探すというスタンスを保持することが重要である。 (成毛眞『大人げない大人になれ!』による) (注1)落とし所:妥協点 (注2)投入:ここでは、集中する (注3)何かしらの:何らかの

63. 目標値を設定する仕事では、どのような目標を設定しようとするか。

1. 外部環境や内部の状況の変化を完璧に予測した目標

2. 現在の状況から見て無理なく達成される目標

3. 成し遂げられる範囲の中で最も高い目標

4. 達成が難しくても取り組む価値のある目標

64. 筆者は、何がビジネスチャンスにつながると述べているか。

1. 創意工夫を生み出す社内環境

2. 社員にとって納得感のある目標設定

3. 社内外の不確定な変化に対する大胆な予想

4. 社内に埋もれている発想や社外で起こる変化

65. 違和感を覚えるとあるが、どのようなことに違和感を覚えているか。

1. 不確定な要素が多いため目標を立てないこと

2. 周囲の状況は変わるのに目標を固定すること

3. 目標を立てたのにそれを口にしないこと

4. 目標を立てたのにそれを変えなくてはならないこと

66. この文章で筆者が言いたいことは何か。

1. 実現不可能なくらいの大きな目標を立てて達成に向けて努力すべきだ。

2. 自分の可能性を大事にするためには、大きな目標を立てるべきではない。

3. 自分が持つ可能が最大限に発揮できるような目標を探し続けることが重要だ。

4. 目標を立てることに縛られず、目の前のことに最善の対応をすることが重要だ。

山の風景画は、世の中にいくらでもある。日本画にしろ洋画にして、古今東西あまたの(注1)画家たちが、その題材に「山」を選んでいる。モチーフとしての山の意味するものはさまざまだろうが、個人的にはそれらに興味を惹かれることはなかった。なぜか。 一般的な登山者が山を眺めたときの感慨は、おおむね似かよっている。それは、雄大さ、峻厳さ(注2)、あるいは優しさといったステレオタイプな観点から山を賛美し、その風景を自分の心の展示箱に納めて「いい思い出」にしてしまう。そして、山岳画や山岳写真の作家たちの多くもまた、似たようなイメージを印画紙やカンバスなどに再現して、狭い市場のなかで再生産している例が少なくない。 だが、山に登る者の心に刻印(注3)される山の風景は本来限定的なものではなく、確定しえない動的な現象として記憶されてもよいのではないだろうか。見る者の心のなかで定着される山のイメージは、そしてその表現は、もっと多様であるべきだろう。 つねに転変をくり返す「海」に対して、動かざるものの象徴として、「山」が引き合いに出されることもある。はたしてほんとうに山は動かないのか。 (中略) 一登山者としてこう思う。山は動いている、と。それは、地殻(注4)変動や火山の噴火など大規模なものだけではない。遠目には同じように見えても、風に吹かれて砂塵は舞い、山腹を覆う植物たちは陽光を浴びて茂し、渓流はその谷の深さを日々深く削り、刻一刻と変化しつづけている。そういった微細な物理的変貌、小さな生命たちの死滅と再生が瞬時も止まることのない現場が、「山」なのである。 都市の風景は近代以降多様な都市論の対象となってきたが、本来、多様性に富んでいるはずの山という場所を表現するイメージが、なぜこれほどまでに単一的なのか。 それは、山というつねに転変する自然から、都市部の生活者の生活が乖離してしまったことに、原因を求めることができるかもしれない。山の変化に気づくほど山を観測していないから、その変化にも気づかない。 何十年も山で暮らしてきたような画家でさえも、その表現は先述した域を出ることは稀だ。思うに、そういった者は都市生活者とは反対に、表現への憧れが先に立ち、山の実相(注5)を表現しえていないのかもしれない。 (志水哲也編『山と私の対話』による) (注1)あまたの:数多く刻の (注2)峻厳さ:厳しさ (注3)刻印する:ここでは、刻む (注4)地殻:地球の表層部 (注5)実相:本当の姿

67. 個人的にはそれらに興味を惹かれることはなかったとあるが、なぜか。

1. 型にはまった見方で描かれた山の絵が多いから

2. 一般的な登山者の視点で描かれた山の絵ではないから

3. 思い出として残すために描かれた山の絵しかないから

4. 自分の心の中にある風景と似たような山の絵ばかりだから

68. 筆者は山をどのようにとらえているか。

1. 山の変化は小さくても、心に残る感動は大きい。

2. は同じように見えても、それぞれの個性がある。

3. 山は一見変わらないようでも、変化しつづけている。

4. 同じ山に登っても、山から受ける印象は毎回異なる。

69. 都市生活者と、何十年も山で暮らしてきたような画家について、筆者はどのように述べているか。

1. いずれも山への憧れが強い。

2. いずれも山への興味が失われている。

3. いずれも山の見方が変化してきている。

4. いずれも山のイメージが固定化している。

70. 山の風景画について、筆者はどのように考えているか。

1. 山の姿を描くためには、その山の特徴を強調すべきだ。

2. 山を多様に描くためには、画家は個性を発揮すべきだ。

3. 山への思いは皆違うのだから、その表現も自由であるべきだ。

4. 山の姿は単一ではないのだから、その表現も多様であるべきだ。

現代は、「発明は必要の母」となった時代である。あるものが発明されると、企業はさまざまな余分の機能をあたかも必要不可欠とばかり付加して製品を売り込もうとし、人々はその機能がいかにも前から必要であったかのごとく錯覚して購入するからだ。発明が欲望を刺激し、欲望が人々を消費に走らせ、消費が新たな必要性という幻想を生み出すのである。その結果、本来必要でなかったものにまで飢餓感を募らせ、無限に便利さを追い求めるという悪循環に陥る。 このように企業の戦略と人々の欲望が結びついて、ひたすら「幸福」を求めようとする構造が①現代という時代を象徴している。ケータイがその典型である。 そんな時代に「幸福」を考えるとすれば、この欲望の連鎖をどこかで断ち切るより仕方がない。いや、発明というような新技術には目を向けず、むしろそれらと縁を切って積極的に時代遅れになるということに「幸福」は求められるのではないだろうか。テレビは置かずに CD でモーツァルトや落語を聞き、パソコンはインターネットに手を出さずワープ ロ機能だけにする。クルマは持たずに公共交通機関のみを使う。ケータイは家族にしか番号を知らせない。 欲望を他者との関係に求めず、自分の内部からの声を汲み上げ、何かを創り出すことのみに時間を使う、そんな生活にこそ「幸福」がありそうな気がする。 むろん、そんな修道僧(注1)のような生き方は現代では②不可能である。電子メールでは誰とでも簡単につながって対話できる。インターネットで買い物をし、プログ(注2)法で自分の意見が自由に出せるのは新しいテクノロジーがあってこそである。テレビからの情報は日常会話に欠かせないし、電話での長話も楽しい。クルマがあればいつでも好きな場所に行ける。パソコンもテレビもケータイもクルマもない生活は考えられず、これら文明の利器(注3)法は私たちを誘引(注4)達して止まないのだ。 ③そこに「幸福」はないと実は誰もが知っていても、便利さと効率性を棄てきれないのも私たちなのである。 とすると、どこかで妥協することを考えねばならない。断ち切るところと利用するところを使い分けるのである。私のやり方は比較的単純で、余分な機器を持たず、持っても時間を区切るか場所を限るかして欲望を抑制することだ。 (中略) そのようにして生み出された時間を自分のために使うのだ。それが私の「幸福」への接近法なのである。 (池内了『生きのびるための科学』による) (注1)修道僧:終行中の僧 (注2)プログ:日記形式のホームページ (注3)利器:便利な器具 (注4)誘引して止まない:ここでは、絶えず引き付けている

71. 現代という時代とは、どのような時代だと筆者は述べているか。

1. 人々が必要性を感じているものを、企業がすぐに察知し製品化している

2. 人々の購買欲にこたえるために、企業が必要以上のものを開発している。

3. 企業の多くの発明によって、人々の便利な生活が支えられている。

4. 企業が次々に新製品を売り込むことで、人々の欲望が膨れ上がっている。

72. 不可能であるとあるが、なぜか。

1. 人は外部の情報なしでは生きられないものだから

2. 人は他者とのつながりを棄てきれないものだから

3. 人は不便で手間のかかる生活に戻れなくなっているから

4. 人は新しいテクノロジーがよいものだと思い込んでいるから

73. そことは何を指しているか。

1. 古い機器を棄てられない生活

2. 便利な機器に囲まれた生活

3. 新しい機器に頼らない生活

4. 必要な機器だけを使う生活

74. 筆者は、どのようにして「幸福」を得ようとしているか。

1. 欲望を抑制して、自身が本当に気に入った機器だけを手に入れる。

2. 機器とのかかわりを制限して得られた時間を、自身のために使う

3. 便利さや効率性を放棄して、自身が本当に必要なものを見極める

4. ものに対する執着心を棄てて、自身のための時間を生み出す。

本というのは人間と同じようなものだ。一律の価値によって優劣を決めることはできない。人気者がいるのと同じようにベストセラーがある。嫌われ者がいるように誰からも手に取られない本もある。だがどれもがそれぞれの価値を持っている。それを求めている人の手に求めているときに渡ればそれは良書になる。 それゆえ私はインターネットの書評サイトなどでまるで自分を神であるかのように本の優劣を断定しているものには激しい抵抗を感じる。もちろん書評をするのは悪いことではない。本を批判したりほめたりするのももちろん大事なことだ。だがあくまでもそれはその人の知識と関心と人柄によっての判断でしかない。つい神の立場でものを言いたくなる気持ちはわからないでもないがそれはあまりに傲慢というものだろう。 私の本もインターネットの書評サイトでかなり叩かれているものがある。それはそれでやむをえないと思っている。ある程度売れるとそれをけなしたがる人間がいるものだ。本をけなすと自分が著者よりも偉くなったような気がするのだろう。私自身も本を書くようになる前いや正直に言うとある程度売れる本を出すようになる前他人の本をずいぶんけなしたものだ。ただきわめて心外なのはないものねだりをしている評があまりに多いことだ。たとえば私はある参考書を出している。その趣旨としていることは「大学の小論文試験に何とか合格できるだけのレベルの小論文が書けるようにするため最低限これだけの知識は持っていてほしい」という知識を整理した参考書だ。だから私はその本の中では敢えて難しいことは書いていない。ところがその参考書を酷評する(注)書評がある。そしてその評の中には「この本を読んでもかろうじて合格するくらいの力しかつかない」と書かれている。 私はまさしくかろうじて合格するくらいの力をつけるためにその本を書いているのだ。かろうじて合格すればその本は最高の良書だろう。私がそのような意味で敢えてカットしたことを取り上げてそれが書かれていないからと批判されてもこちらとしては困ってしまう。 そのような身勝手な書評がなんと多いことか。知識のある人間が入門書を幼稚すぎるとけなし知識のない人間が専門書をわかりにくいとけなす。しかしそれは単に自分の背丈にあっていない本を求めただけのことに過ぎない。きちんと自分の背丈にあった本を探して買うのが読者の務めだと私は思う。 本について語るからにはあらゆる本に愛情を持つべきだと私は考えている。そうしてこそ本を批判する資格を持つと思うのだ。 (樋口裕一『差がつく読書』による) (注)酷評する:ひどく厳しい評価を下す

75. 筆者はどのような書評が傲慢だと感じているか。

1. 大した理由づけもなく優劣を断定したもの。

2. 優れている点を決して認めようとしないもの。

3. 自身に知識があるかのように見せかけたもの。

4. 自身の判断がすべてであるかのように評価したもの。

76. ある参考書について筆者が心外だと感じたのはどのような書評か。

1. どうにか合格できる程度を目指したのにそれ以上の内容が必要だと評判したもの。

2. 合格に必要な最低限の知識を整理したものなのに合格は不可能だと批判したもの。

3. 敢えて難しいことは書いていないのにそれでもわかりにくいと批判したもの。

4. 難しい試験でも合格できるように書いたのにそれでも不十分だと批判したもの。

77. 筆者によると本が良書と言えるのはどのような場合か。

1. 書評で強く批判されない場合。

2. 多くの人が価値を認めている場合。

3. 求める人に本の趣旨が理解しやすい場合。

4. 求める人のレベルや目的にあっている場合。

78. 本を批評する人に対して筆者が言いたいことは何か。

1. 著者のあらゆる本を読むべきだ。

2. 極端に否定的な評価は避けるべきだ。

3. それぞれの本の存在価値を認めるべきだ。

4. どのような本にも先入観なしで接するべきだ。

私もかつて一個の子供であったが、親との「対話」など別にのぞまなかったように思う。もし親の方が「対話」をしかけてきたら、照れくさいような、歯(注1)の浮くような気持がしただろう。少なくとも、中学生のあたりからは、そうであった。私は特別反抗的な子供ではなかったが、親と「対話」などしたって、本当の話はできない、とごく自然に承知していたように思う。 といって、親とのつながりを、まったくのぞんでいなかったわけではない。しかし、それは「対話」などという正面(注2)きったものではなく、言葉としてはほとんど意味をなさないような交流があれば、充分だった。つまり、家の中で顔を合わせて、黙って顔をそむけられては、どこかで寂しいような見捨てられたような気持がしたが、「お」「やってるか」ぐらいのやりとりがあれば、①気持は安定していたのである。 それ以上親が気をつかって「このごろ音楽はどんなもんがはやっているんだ?」などと聞いてきたら、無理してるなあ、と思うし、そんな必要ないのになあ、と思うし、答えるのがすごく億劫だったろう、と思う。 親とは通じない部分を、どんどん持つことによって、子供は自分の世界をつくっていくのである。不分明(注3)なところが多いから、といって親が不安におちいることはない、と思う。 「なにを考えているか、なにをしているか分らない」部分が増えていくことで、子供は成長しているのだ。そこへ、いちいち親が首をつっこみ「一緒に悩み、一緒に考えよう」などとすることは、子供にとっては、ひどくわずらわしいことだし、親が加わることで当面の局面はいい方向へ転換するとしても、②長い目で見れば、あまりいい影響を残さない、というように思う。 (中略) では、どうしたらいいか、というと、原則的には親は子供の内面については、ほうっておくしかないのだ。理解しようとしたり、いわん(注4)や共感しようとしたり一緒に悩もうとしたりしてもむだなのだと思う。 子供との距離が、刻々ひらいていくことに堪えるしかないのだ。そして、その距離をリアルにとらえている親は、子供にとって魅力的だと思う。 そうした親は、子供を理解しようとしたり、一緒に悩もうとしたりしない。そういうことができないことの悲しさ、寂しさ、情けなさを胸におさめて、子供と対する。いわば「他人」として対する。「親切な他人」として対する。そして、その節度を保てるということが、子供への愛情になっている。というような親でありたい。と少なくとも私は思っている。 (山田太一『誰かへの手紙のように』による) (注1)歯の浮くような:ここでは、なんとなく落ち着かない (注2)正面きったもの:ここでは、きちんとしたもの (注3)不分明な:はっきりしない (注4)いわんや:まして

79. 中学生のころの筆者の親に対する態度はどのようなものだったか。

1. 話らしい話はしようとしなかった。

2. 話しかけられないように顔を合わせなかった。

3. 親を寂しがらせないように気をつかっていた。

4. 言葉として意味をなさないやりとりを避けていた。

80. 気持は安定していたとあるが、なぜか。

1. 親と時々「対話」による交流が持てたから

2. 親が「対話」をのぞんでいることが分かったから

3. 親が自分を気にかけていることを確認できたから

4. 親が自分のことを理解していると感じたから

81. 長い目で見れば、あまりいい影響を残さないとあるが、なぜか。

1. 親が不安な気持でアドバ スすると、子供の不安も増すから

2. 親の価値観によるアドバ スは、子供にとってあまり役に立たないから

3. 親が子供の世界に入ろうとすると、子供は心を閉ざしてしまうから

4. 親が子供にかかわりすぎると、子供は自分の世界をつくりにくくなるから

82. 親は子供に対してどうあるべきだと、筆者は考えているか。

1. 子供との意思疎通を図り、交流を深める。

2. 子供との距離を受け入れ、成長を見守るよ。

3. 子供の気持を理解し、愛情を言葉にする。

4. 子供の悩みを共有し、かつ適度な距離を保つ。

「目を見て話す」この秘訣を教えてくれたのは、まだ小さかった頃の娘でした。 「外から帰ったら、手を洗いなさい」 「ごちそうさまを言いなさい」 (中略) どんなに声に威厳を込めたつもりでも、新聞をよみながらだと、まるでだめ。 [お父さんはこういっているけど、手を洗うっていうのは、別に大事なことじゃないんだな」きちんと目を見ていないと、子どもはたちまちそう判断してしまいます。よそ見をしながら口やかましく繰り返しても、①「ごちそうさま」を言うようにはならないのです。目を見て話すことは、分かり合い、メッセージを伝え、コミュニケーションをよくする秘訣。これは子供に限ったことではありません。仕事でも家庭でも、すべての場において有効です。 大人になると、ぎくしゃくすることは頻繁にあります。 環境も価値観も考え方も違う人たちの集まりである以上、意見が食い違ったり、誤解が生じてトラブルになることは珍しくありません。 「じっくり話し合えば、ちゃんと分かり合える」というのは、僕の見たところ、残念ながら理想論。どちらかが妥協したり、お互いがちょっと意見を曲げたりして合わせているだけで、100パーセントの解決などありえないのが現実です。 あげくの果てに(注)「話しても無駄だし、まだ同じことの繰り返しか」とうんざりし、コミュニケーションをあきらめてしまう一ほうっておくとこんな事態に陥ることも、珍しくはありません。 それでもコミュニケーションを諦めたくないと思ったとき、僕はこの秘訣を思い出しました。いくら意見が食い違っても、どんなにトラブルが燃え上がっても、必ず相手の目を見て話をするということを。 考え方がまるで合わず、最後まで言い分は平行線をたどるような議論でも、相手の目を話し読ければ、不思議なことに相手に尊敬の念が湧いてきます。たとえ「この人の言っていることは、間違っている!」と思っていても、相手の目を見ていれば、「その人の人間性」に対しては、別の気持ちを抱くようになります。意見は認められなくても、人としては認められるということです。 言い合っても目と目を見つめ合っていれば、不思議な一体感すら生まれます。結果として解決には到らなくても、悪い方向には向かわない。これだけは、何度も試した僕の保証付きです。 疲れていたり、へこんでいたりすると、人は目を見て話すことができません。そして下を向いていればいるほど、よくない事態が悪化します。 さあ、洗い物をしながら大事な話をするのはやめましょう。パンコンから顔を上げて、まっすぐ目を見て話しましょう。理解できない相手でも、受け入れられない相手でも、この秘訣を知っていれば、②何か別の関係は生まれるはずです。 (松浦弥大郎「あたらしいあたりまえ。人暮らしの中の工夫と発見ノート2」による) (注)あげくの果てに:結局

83. 子供は、①「ごちそうさま」を言うようにはならないとあるが、なぜか。

1. 親が手本を見せないとわからないから。

2. 親がやかましく言うとかえって逆効果になるから。

3. その言葉を言うことが習慣になっていないから。

4. その言葉が必要だという親の気持ちが伝わらないから。

84. 大人同士の人間関係について、筆者はどのように述べているか。

1. 話し合いを重ねても、お互いを理解できないことがある。

2. お互いを理解するためには、最後まで議論することが必要だ。

3. 話し合いの場で誤解をなくすには、お互いが妥協しなければならない。

4. コミュニケーションを諦めると、トラブルになることも珍しくない。

85. 何か別の関係が生まれるとあるが、どういうことか。

1. 相手の人間性を認めるようになる。

2. 相手の意見を容認できるようになる。

3. 相手の態度を受け入れるようになる。

4. 相手の価値観を理解できるようになる。

86. この文章で筆者が言いたいことは何か。

1. 問題を解決するためには、相手の目を見て理解できるまで話し合えばいい。

2. コミュニケーションのためには、相手の目を見て話すことが大切である。

3. 相手に誤解されないためには、目を見てコミュニケーションをすればいい。

4. 自分を理解してもらうには、目を見て繰り返し話すことが大切である。

皆さんは、今朝起きてからいままでに、どんな広告を見たか覚えていますか。 「広告はほとんどなかったと思うけど……」。いやいや、そんなことはありません。現在の時間が、朝会社に着いたばかりだったとしても、短い時間のうちにものすごい量の広告に触れているはずです。テレビCM で、新聞で、電車の中で、街中で……。何十、何百という数が、目の前を通り過ぎたことでしょう。 そのなかで、ぱっと思い出せるものはありますか。そう言われてみると、ほとんどといっていいくらい、記憶に残っていないのではないでしょうか。 (中略) 「広告なんて誰も見ていない」 これは、僕が会社に入って間もない頃に実感したことです。会議で難しい用語が飛び交い、商品のアピールポイントや表現の話は白熱しているのですが、①もっと根本的なことにはなかなか触れられずにいる。目の前の仕事に深く入り込んでしまうと、「果たして、広告とは関心をもってもらえるものなのか」という、ぐっと引いた視線で見ることを忘れがちになってしまうのです。こうした大前提が見えないままに作られている広告が、非常に多いのではないでしょうか。 広告を発信する側としては、伝えたいことはたくさんあって、一般の人たちも当然注目してくれるものと思い込みがちです。ところが、受け手側というのは、発信者側のそんな思いなど、ほとんど意に介し(注1)ていません。なぜなら、日常生活のなかでは、自分の身の回りの出来事や問題で精一杯になっているからです。人は自分の心にバリア(注2)を張っていて、無意識のうちに外部情報を遮断しています。ですから、伝えたい情報を相当きちんと整理したうえで、筋道を立てて戦略的に伝えることを考えないと、受け手の心のバリアを破って入り込むことなどできないのです。 「振り向かせるためには、刺激的なものにすればいいんじゃないの?」 ②こういう意見もあるでしょう。でも、単に刺激的なだけでは、一瞬目を引くだけで終わってしまう。心の奥までは浸透していかないのです。たとえるなら、子どもが隠れていた物陰から出てきて、「わっ!」と驚かせるようなもの。驚かされた方は、怒ったり相手にしなかったりするかもしれません。相手の理解を得たり興味を引いたりしないと、本当に心を捉えたことにはならないのです。だから、まず何が言いたいのかという主旨をはっきりさせ、そのうえでどんなトーンで伝えるのかという工夫をすることが大切です。 (佐藤可士和『加藤可士和の超整理術』による) (注1)意に介する:気にする (注2)バリア:ここでは、壁

87. もっと根本的なこととあるが、どのようなことか。

1. 広告とは一体何なのかということ

2. 広告とは必要なものなのかということ

3. 広告の用語や表現が適切なのかということ

4. 広告とは人に注目されるものなのかということ

88. 筆者は、広告の受け手をどのようにとらえているか。

1. 自分のことで忙しくて、余計な情報を取り入れようとしない

2. 毎日の生活が忙しく、たくさんのことを覚えようとしない。

3. 目にする広告が多すぎて、必要なものが選べなくなっている。

4. 関心のもてない広告が多く、広告を見る必要性を感じていない。

89. 筆者は②こういう意見に対してどのように考えているか。

1. 刺激的な広告は、受け手の心の奥に入り込んでいきやすい。

2. 刺激的な広告は、より刺激的にしていかないと受け手に伝わらない。

3. 単に刺激的なだけの広告も、受け手を振り向かせるためには必要だ。

4. ただ刺激的な広告は、驚かせるだけで受け手の心には残らない

90. 広告の発信者に対して、筆者が言いたいことは何か。

1. 受け手の視点に立って商品をアピールすることが重要だ。

2. 受け手の心をつかむような情報を発信し続けることが重要だ。

3. 受け手に商品の魅力をいかにストレートに伝えるかが重要だ。

4. 受け手に伝えたい情報をいかに整理して発信するかが重要だ。

最近、思想を表現する方法について考えることが多くなった。たとえば、文章は思想を表現する方法のひとつだけれど、その文章にもいろいろな表現形式がある。哲学の勉強をはじめた頃の私は、さまざまな形式のなかで論文という形式だけが、思想表現の方法にふさわしいと思っていた。しかし、後に、この考え方を訂正しなければならなくなった。思想の表現として、論文が唯一の方法だということは絶対にない。私たちは、すぐれたエッセーや小説、詩をとおして、しばしば思想を学びとる。とすれば、思想を表現する文章のかたちは、自在であってよいはずである。ところが、そう考えてもまだ問題はある。というのは、思想の表現形式は、文章というかたちをとるとは限らないのだから。絵でも彫刻でも、音楽でも、つまり実にさまざまなものを用いて、思想を表現するのは可能なはずである。そのなかには、かたちにならないものもある。たとえば私の村に暮らす人々のなかに、自然に対する深い思想をもっていない人など一人もいない。村の面積の96パーセントを森や川がしめるこの村で、自然に対する思想をもたなかったら、人は暮らしていけない。ところが村人は、<自然について>などという論文を書くことも、文章を書くこともないのである。そればかりか、自分の自然哲学を、絵や音楽で表現しようとも考えない。そんなふうにみていくと、村人は自然に対してだけではなく、農についての深い思想や、村とは何かという思想をももっているのに、それらを何らかのかたちで表現することも、またないのである。とすると、村人たちは、どんな方法で自分たちの思想を表現しているのであろうか。私は、それは、<作法>をとおしてではないかという気がする。 (中略) 考えてみれば、もともとは、作法は、思想と結びつきながら伝承されてきたものであった。たとえば昔は、食事の作法を厳しくしつけられた。食べ物を残すことはもちろんのこと、さわぎながら食事をすることも、けっしてしてはいけなかった。それは、食事は生命をいただくものだ、という厳かな思想があったからである。茶碗の中の米だけをみても、人間はおそらく何万という生命をいただかなければならない。だから、そういう人間のあり方を考えながら、いま自分の身体のなかへと移ってくれる生命に感謝する。この思想が食事の作法をつくりだした。 ところが、近代から現代の思想は、このような、日々の暮らしとともにあった思想を無視したのである。その結果、思想は、文章という表現形式をもち、文章を書く思想家のものになった。そして、いつの間にか人間の上に君臨し、現実を支配する手段になっていった。 (内山節『「里」という思想』による)

91. かたちにならないものとして筆者が挙げているのはどれか。

1. 自然

2. 生命

3. 感謝

4. 作法

92. この文章中で筆者は、自分の村に暮らす人々がどんな思想をもっていると述べているか。

1. 自然の中で生きるための思想や、農業や村のあり方についての思想

2. 自然を壊さずに暮らすために、農業や村人はどうあるべきかという思想

3. 自然に対する感謝を表すために、村人としてどうするべきかという思想

4. 自然を取り戻すための思想や、自然を利用する農業のあり方についての思想

93. 食事の作法は、次のどのような考え方と結びついているか。

1. 多くの労力がささげられて作られた食べ物が、いかに尊いものであるかという考え方

2. 何かを食べないでは生きてはいけない人間のあり方が、いかに罪深いものであるかという考え方

3. 食事は農が生み出したものをいただくものであり、農業を営む村人への感謝が必要だという考え方

4. 食事は他の生命を自分の身体に取り入れるものであり、それらの生命に感謝しなければいけないという考え方

94. この文章中で筆者が述べていることはどれか。

1. 思想の表現は必ずしも文章や作品というかたちをとるとは限らず、かたちにならないものもある。

2. 思想は絵や音楽のようなかたちに表わされるものと考えられてきたが、深い思想とはかたちにならないものである。

3. 思想の表現には絵や音楽などもあるし、かたちにならないものもあるが、文章で表現されたものが最上のものである。

4. 思想は文章や作品のようなかたちになったものが尊重されるが、生活と結びついた深い思想はかたちにならないものである。

眺めていると、東京の空には意外にたくさんの鳥が飛んでいる。カラスやスズメばかりではない。カモメもいるし、僕には種類のよくわからない鳥もいる。それらは町人や人家に「適応」した都市鳥ではなく、野生の鳥である。そのような鳥が、コンクリートのビルの上を何事もないように飛び、何の屈託もなく、ビルの一角にとまる。まるで森や林の木の枝にとまるように。 (中略) ツバメが人家の軒先に巣をつくるのは、スズメを避けるためだということを明らかにした研究がある。スズメはふだんはあまり人間を恐れないが、ひなを育てるときは人間を避ける。だから、人がひんぱんに出入りする店先などには巣をかけない。ツバメはそれを利用する。そういう店先の軒に巣をつくれば、嫌なスズメはやってこない。昔、ツバメがたくさん巣をかけると、店は繁盛するといわれた。話は逆であって、繁盛している店にツバメが集まってくるのである。 今、大都市にはツバメがめっきりすくなくなった。かつてのように、どの通りを歩いていても、子育てのために餌を持ち帰るツバメが飛び交う姿は見られなくなった。おそらくツバメたちは、町そのもののつくりや、人間の存在が嫌いになったのではないだろう。町が人工的にきれいになりすぎて、餌にする虫があまりにも減ってしまったので、町ではひなも育てられなくなったから、都会には棲ま(注1)なくなったのである。 こういう事例を見ていると、自然保護とか自然との共生ということについて、少し考え直す必要があるのではないか、という気がしてくる。 多くの動物たちはわれわれが思っていたよりもずっとしたたかである。自分たちの生活の基盤になる条件さえそろっていれば、たとえその条件が人工のものであとうとも、そしてそこをたくさんの人間がうろうろしていようとも、平気で棲みついてしまう。カラスやツバメのように、人間がいることをむしろ利用しているものだって、けっして少ないとはいえない。都市周辺で急速に増えつつあるタヌキやキツネもその例である。人間がいるおかげで豊富な食物がたやすく手にはいるようになった。命がけで食物を探す必要はなくなったのだ。 けれど、都市化によってツバメは餌を失った。モンシロチョウ(注2)は日なたを失った。そうなったら出ていく他はない。 水面に浮いた生活するアメンボは、水が汚かろうと富栄養化していようと一向にかまわない。彼らにとって重要なのは、水の表面張力だけである。たとえ化学的に無害な物質によってでも、水の表面張力が低下すれば、彼らは溺れてしまう。 やたらと動物たちに遠慮することはないのかもしれないが、それぞれの動物にとってのこのキー・ポイントは侵してはならない。 (日高敏隆『春の数えかた』による) (注1)棲む:住む (注2)モンシロチョウ:チョウの一種類 (注3)アメンボ:昆虫の名前 (注4)富栄養化:栄養のある物質がたまり、小さい生物が異常発生する状態になること

95. ツバメが人家の軒先に巣をつくる理由として適当なのはどれか。

1. 人家の軒先では、ツバメが子育てに必要な餌を得ることができるから

2. 人家の軒先は、店の軒先ほど人の出入りがひんぱんではないから

3. ツバメの天敵であるスズメが、常に人間を恐れて近寄らないから

4. ツバメの嫌うスズメが、人のいるところではひなを育てないから

96. 筆者によると大都市でツバメが少なくなったのはなぜか。

1. 森や林が失われたから

2. 巣をつくりにくくなったから

3. カラスやスズメが増えたから

4. 食物を得るのが難しくなったから

97. 多くの動物たちはわれわれが思っていたよりもずっとしたたかであるとあるが、どのような点でしたたかだと筆者は考えているか。

1. 都会であっても森や林があれば巣を作る

2. 生きるための条件が整えば都会で生活する

3. 都会であっても餌がなければ命がけで探す

4. 人間を避けることができれば、都会に棲みつく

98. この文章で筆者が言いたいことは何か。

1. 都会を去った動物たちが再び人間と共生できるような対策を立てる必要がある

2. 都会での生活は動物にとって実は利点が多いということを認識する必要がある

3. 自然との共生を考える際には、動物の生存に必須の条件を尊重すべきである

4. 動物たちの生活を守るために環境汚染を防止し、自然を保護すべきである

例えば、3年間ずっとノーミスでやってきた論田くんが、はじめてミスを出した。 3年前からずっとその仕事ぶりを観てきた上司と、異動していきなり論田くんのミスに出くわした上司と、論田くんへの印象は同じだろうか? 両者のミスの「情報占有率」がちがう。つまり、3年間のつきあいの中で、ミスが占める割合と、たった1回初めて論田くんと接した中で、ミスが占める割合と。 相手は、貴方が過去からずっと積み上げてきたすべての情報で、貴方を判断するのではない。結局は、そのとき相手が持っている情報だけで判断される。その中で、いい情報の占める割合が多ければ「いい人だ」となる。 あなたが「優しい人」で10年間怒ったことがなかったとしても、10年ぶりに怒ったとき、たまたま出くわした初対面の相手にとっては、それが100%だ。あなたを「恐い人」だと思う。 自分にふさわしい「メディアカ」を相手の中に刻むために、ちょっと「情報占有率」を意識してみるといい。 コミュニケーションでは、出会いからはじまって、相手から見たあなたの「メディア力」が決まるまでの間が肝心だ。つまり、初めの方が慎重さがいる。ここで、かっこつけるのでもなく、でも、あなた以下にもならず、等身大の(注1)あなたの良さが伝わるのが理想だ。 いつも質の高い仕事をしているなら、はじめての仕事先に対し、決していつもの質を落としてはいけない。ふだん静かな人なら、初対面の相手にも、奇をてらったり(注2)せず、普段どおり静かにしていればいい。 自分にうそのないふるまいをする、ということは、初対面の相手にこそ大切だ。 さて、ここで問題なのは、ふだんとても穏やかなあなたが、その日はたまたま嫌なことが重なり、攻撃的になっているという場合だ。自分にうそのないということで、相手にきついことを言ってしまったらどうだろう。あなたにとっては、年に1回の、「たまたま不機嫌な日」でも、相手にとっては、あなたに関する情報の100%になる。 初対面の相手、まだ付き合いの浅い相手には、すこし慎重になって考えてほしい。 何が、自分にうそのないふるまいか?自分の正直な姿を伝えるとはどういうことか? 日ごろ99%穏やかなあなたなら、1%の異常よりも、いつもの穏やかさを伝えるほうが、結局は、正直な姿を伝えている。相手の中に、あなたの実像に近い「メディアカ」が形成されるからだ。初対面の相手にこそ、平常心であること、普段どおりにやることが大切だ。 (山田ズーニー『あなたの話はなぜ 「通じない」 のか』 による) (注1)等身大の:誇張のない (注2)奇をてらう:変わったことをして、他人の気をひこうとする

99. 筆者によれば、上司にとって論田くんのミスの「情報占有率」が上がるのはどのような場合か。

1. 付き合いの長い上司との関係の中で、論田くんがミスを1回した場合

2. 付き合いの長い上司との関係の中で、論田くんがミスを3回した場合

3. 付き合いの短い上司との関係の中で、論田くんがミスを1回した場合

4. 付き合いの短い上司との関係の中で、論田くんがミスを3回した場合

100. 自分にうそのないふるまいとはどのようなものか。

1. その時々のすなおな気持ちを表すこと

2. いつも正直に自分の考えを伝えること

3. いつもどおりの姿を見せること

4. うそをつかず正直に話すこと

101. 筆者は、なぜ初対面の相手に慎重になったほうがいいと述べているのか。

1. 普段どおりの態度では、相手に自分の良さを十分に伝えられないから

2. 自分に関する一部の情報で相手がすべてを判断するかもしれないから

3. 相手の性格が自分と合うかどうかがまだよくわかっていないから

4. 初対面の相手には慎重な姿が実像だと思わせる必要があるから

102. 自分に「メディアカ」について、筆者はどのようにするのがよいと述べているか。

1. 相手に自分の「メディア力」 が正確に伝わるように意識する。

2. 相手に普段の自分以上の「メディアカ」 を伝えるようにする。

3. 相手に刻まれた自分の「メディア力」 を気にせず平常心でいる。

4. 相手に見せる自分の「メディアカ」 を下げないように静かにしている。