問題 10. 次の文章を読んで、後の問いに対する答えとして最もよいものを1・2・3・4から一つ選びなさい。

以下は、ある数学者が書いた文章である。 数学というものは、解き方がわかってしまったあとで、力がつくことはない。解き方を身につける前の、まだ解き方のわからない間だけが、力をつけるチャンスである。解けるようになるのは同じでも、それまでのあり方で、力が身につくかどうかが、きまってくる。 それに、おもしろいのも、本当は、まだ解けないで、いろいろと考えている間である。解けなきゃつまらないようだが、それは早く解こうとあせるからで、楽しみは解けるまでのほうにある。解けるようになったあとは、むしろむなしい。だいたい、「答えのわかっている謎」なんて、意味がない。解き方がわからないからこそ、問題の名にあたいするのだ。 もちろん、まったく手がつかない(注1)のでは、おもしろくもないが、案外に、多少はわからないでも、うまく 頭のなかに飼っておくと、そのうちに馴れてくれて、わかってきたりする。その、だんだん少しずつ、わかりかけというのも、オツな(注2)ものだ。そのためには、それを飼っておく、頭の牧場がゆたかでなければならない。本当のところは、数学の力というのは、いろいろとわかったことをためこむより、わからないのを飼っておける、その牧場のゆたかさのほうにあるのかもしれない。 とくに、公式などをおぼえるのには、ぼくは反対である。それは簡単すぎて、少しもおもしろくないし、おぼえたものは忘れるものだ。とくに、急いでおぼえたものは、早く忘れる。同じおぼえるにしても、なるべくなら時間をかけたほうが、長持ちする。 (中略) このごろは、テストでおどされる(注3)ことが多いので、わかること、解けることを急ぐ傾向にある。たしかに、テストなどでは、時間がかぎられているので、急ぐのも多少は仕方がない。しかしながら、時間を制限されたときに急いでできるためには、時間の制限されていないときに、時間を気にしないでやっておいたほうがよい。テストで急ぐためには、テスト以外では急がないほうがよいのである。 どんなやり方でも、わかって、問題が解けるようになる、という結果は同じかもしれない。しかし、ゆったりとやると、そのわかり方にコク(注4)が出てくるものだ。そして、その結果に達するまでの道筋を楽しむことで、力がつく。 勉強を楽しむなんて、と思うかもしれないが、それは目的ばかり見てあせるからで、楽しむ気になれば、なんだって楽しめるものだ。 (注1)手がつかない:ここでは、できない (注2)オツな:ここでは、おもしろい (注3)おどされる:ここでは、早く問題を解かされる (注4)コク:深み

1. 数学の問題を解くことについて、筆者の考えに合うのはどれか。

1. 早く解けなくても、解き方を身につけることが大切だ。

2. 解けても解けなくても、問題に取り組むことが大切だ。

3. 解けなかった問題が解けるようになったらおもしろくなる。

4. 解き方のわからない問題を解こうとすることに意味がある。

2. 頭のなかに飼っておくとはどういうことか。

1. わかる問題を手がかりにして、わからない問題を考えること。

2. わかる問題とわからない問題を、頭のなかで区別しておくこと。

3. わからない問題をわかるまで解き続けていること。

4. わからない状態のまま、問題を頭のなかに残しておくこと。

3. 筆者によると、どのように勉強すればよいか。

1. 結果を急がずに、考えることを楽しむ。

2. 結果に達することができれば、どんなやり方でもよい。

3. 目的を忘れないで、あせらずに勉強を楽しめばよい。

4. 自分に合ったやり方を探して、時間を気にせず取り組む。

教育を仕事にしていると、面白いことがたくさんある。その中の一つに、「未熟さの効用」とでも言うべき現象がある。知識や教育技術がたとえ未熟であったとしても、不思議と初めて受け持った授業が生徒との間に一番濃い縁を結ぶことがよくある。 通常の仕事は、経験を積み、技術が上がるほど、質が良くなる。教育の世界でも、もちろん経験知は有効に働く。ベテランの安定感は、たしかに大切だ。しかし、教育の場合は、若く未熟であることがむしろプラスに働くケースがよくあるのも事実だ。初年度に受け持った学生たちのことが鮮明に記憶に残り、その後のつき合いも深い、という経験が私にもある。 これはどういうことだろうか。まず考えられるのは、初年度の緊張感が、学生たちに新鮮な印象を与えたということだ。慣れてくると手際が良くなる。すると、学生たちは、安心する一方で油断が出る。レストランで手際のいいコックに料理を出してもらうような気分で、授業を受け始めてしまうのだ。授業を上手にサービスする側と、サービスされる側に、立場がはっきり分かれてしまう。先生はいかにも先生らしく、生徒はいかにも生徒らしい。 こうした関係は、安定はしているが、ときに新鮮さに欠ける。これに対して、初年度の教師が持つ緊張感は、生徒にも伝染する。その緊張感の共有が、一つの同じ場を作り上げているのだという意識を生みだす。参加し作り上げる感覚が、生徒の方にも生まれる。それが思い出の濃さにもつながる。 ここで初年度というのは、教師になって初めての年度というだけではない。学校を替わって、教師が新たな気持ちで臨むときも新鮮さが出る。あるいは新しい教科を担当し、一生懸命勉強して多少の不安を持ちながらも勢いをつけて切り抜けていくときにも、印象深い授業ができやすい。ただ単に未熟であることがいいわけではもちろんない。自分が未熟であることを自覚し、その分精一杯準備し、情熱を持って語りかけるときに、未熟さがプラスに転じるのだ。 教育において「新鮮さ」は決定的な重要性を持っている。いわゆる「教師臭さ」 は、学ぶ側の構えを鈍くさせてしまう。型どおりの教え方が染みついてしまっている、という印象を与えてしまうだけで大きなマイナスになるのだ。「決まり切った感じ」を印象として与えないようにすることが大切である。経験知を重ねる良さを残したまま、新鮮さを失わない。これは、もはや一つの技である。「先生も自分たちと一緒に変化してくれるのだ」 という意識が学ぶ側に生まれると、場を一緒に盛り上げる機運が高まる。

4. 筆者によると、教育の仕事は通常の仕事とどのような点で異なるか。

1. 知識や技術の高さよりも人格の良さの方が重視される。

2. 知識や技術が十分でなくても良い結果を生むことがある。

3. 経験知の豊富なベテランより、若く未熟な方が好かれやすい。

4. 経験を積み技術が上がっても、仕事の質が良くなるとは限らない。

5. 筆者によると、初年度の教師の緊張感は学生たちにどのように影響するか。

1. 積極的に授業に参加し、教師の緊張感を和らげようとする。

2. 教師の立場を理解し、生徒らしい態度で授業を受けようとする。

3. 教師と一緒に授業を作っているのだという気持ちになる。

4. 教師と緊張感が共有でき、心を開いていいのだと思うようになる。

6. 筆者によると、教育を仕事にしている人間にとって大切なことは何か。

1. 経験に満足するとなく、自ら変化し続けようとすること。

2. 新鮮さを失わないために、自ら新しい知識や技術を身につけること。

3. 自らの足りなさを補いつつ、情熱を持って接すること。

4. 自らの未熟さを隠さずに、学ぶ側が一体感を得やすくすること。

以下は、筆者がほかの研究員とともに開発したロボットについて書かれた文章である。 通常、ロボットに対するプログミングは、センサから取得した情報に応じてロボットが何らかの反応をするようなものを作っていく。たとえば「障害物を察知したら避ける」といった具合のものである。しかし、僕はロボピーがもっと適当に、意味のない動きも含めてさまざまな行動を取るようにしたのだ。 300以上の動作プログラムをし、動作パターンが次々にどういう順番で発現するかというルールを700以上プログラムした。その結果複雑に、多様に動くロボットが実現された。ここまでやると、自分たちでもプログラムがどう作用するかわからなくなる。何に反応して、どんな行動をするか予測不能になった。 そんなプログラミングをしておいたロボピーを研究室に置いていたら、何が起こったか。僕らがミーティングをしているとき、突然ロボピーは僕らの音声を認識し、「そうではないよ」と言って手をぶらぶらさせながらどこかへ向かって歩きだしたのだ。それを見て僕らは呆気にとられながらも、ロボピーに意思を感じてしまった。僕らの話を聞いていて、彼は思うところがあり、だからどこかへ行ってしまったのだろう、と。 もちろんそれは、ロボピーの中のあるプログラムが、何かをきっかけに作動しただけのことだ。だがなにか首尾一貫したひとつの意思決定機構から生み出された行動であるかのように見えたのだ。 僕はそのとき確信した。「心とは、観察する側の問題である」と。 非常に単純な機械の動きに「心を感じますか」と問えば、感じると言う人は少ない。多少複雑でも、原理を知っていれば「それは心ではない」と言う。しかし、人間は複雑である。いや、虫程度でもいい。動きが相当以上に複雑なものに対しては、相手のことを一から、すべては理解しきれない。自分の頭の中で完全に再現しきれない、解釈しきれない、理解しきれないほど複雑なもの、仕組みがよくわからないくらい入りくんだものが目の前にあると、「こいつは、私の知らないところで勝手に独立して考え、動いているのだろう」という想像が働く。その浮かんできた想像に名前をつけずにはいられなくなる。それを「心」と呼んでいるのだ。 心とは、複雑に動くモノに現実的にあるというより、その動きを見ている側が想像しているものなのだ。そしてその心は、見ている側の自分にもないと都合が悪い。とくに人間同士であればお互いに「心がある」と感じてしまっている。だからひとはみな「自分には心がある」と思う。しかし心は、実は自分の中にいくら問い合わせ、内省してみてもしょうがない。相手を観察し、想像することでしかわからないものなのだ。

7. ロボピーが、ほかのロボットと異なる点は何か。

1. 動作パターンが限られているので、ある程度動きが予測できる。

2. 与えられた情報の一部を自分で判断して動くので、動きが予測できない。

3. どう動くかというプログラムを多数組み込んだので、動きが予測できない。

4. 多様で複雑な動作をプログラムしたので、人間のように自然な動きができる。

8. どこかへ向かって歩きだしたとあるが、その時筆者にはどのように思えたか。

1. プログラムに間違いがあり、ロボピーに意思が生まれて動いた。

2. プログラムが作動したのではなく、ロボピー自身が考えて動いた。

3. プログラムが作動して、意思があるかのようにロボピーが動いた。

4. プログラムが誤作動して、制作者の意図に反してロボピーが動いた

9. 「心」について、筆者はどのように考えているか。

1. あると思って観察すれば、複雑な動きの意図が理解できる。

2. 実体がないので、あるとかないとか想像しても意味がない。

3. 仕組みが複雑すぎるため、人間同士であっても想像できない。

4. 理解しきれない複雑な動きを見たときに、人間が想像するものだ。

以下は、報道写真を撮る人が書いた文章である。 写真の発表の場が減ったことで、その未来を懸念する声が多いが、私は、そうは思わない。音も動きもなく、数千分の一秒という高速で動きを止める写真は、テレビと比べると臨場感では劣り、「伝えるためのメディア」としては原始的なのかもしれない。しかし、テレビのように用意された答えを差し出し、「こうです」と押しつけるのとは違って、写真には、写真の一瞬に込められた意味を想像すること。その瞬間の前と後、あるいは、写っていべてが提示されていないからこそ、それを補うための想像力が必要となる。 (中略) ないものにまで思いをめぐらせること。さらに写っているものに、どう自分を重ね合わせ、何を感じ取るかということ。想像力を伸びやかに働かせることで、私たちは周りに流されずに、「いまの時代」を自分なりに感じ取ることができるはずだ。 しかし、想像力を呼び起こすためには、写真に「絵」としての力があることが必要条件となる。最初に「絵画」の構成力や力強さといったものがあってこそ、人を惹きつけることができるはずで、そこから何を感じてもらうかはその次のこととなる。 写真を始めた頃、「名作」と呼ばれる写真をたくさん見るように努めた。ロバート・キャパの「倒れし兵士」、カルティエ・ブレッソンの「水たまりを飛ぶ男」、ユージン・スミスの「シュバイッツア博士」......。それらの写真を前に、「どうして名作なのか」と考えた。その時は、すぐには答えが見つからなかったが、いま思うのは、「名作とは見る人が、それぞれに感じ取れるものがある写真」ということだ。悲しい時、うれしい時、その時々の心のあり様によって、一枚の写真から感じるものは違ってくる。若い時に、私が感動した写真でも、いま見ると、さほど感じないというものもあるし、逆に、若い頃は何も感じなかった写真がいまになって心に迫ってくることもある。様々な人が、心のままに写真に向き合い、そこからいろいろなメッセージをくみとれる写真が、多くの人に支持され、時を越えて残っていく名作なのだと思う。 写真の力が失われていると嘆く人もいるが、いまはカメラ付き携帯電話が普及し、多くの場所で写真を撮ることができる時代でもある。その意味では、一億総カメラマンの時代といえるのかもしれない。誰もが撮ることができる時代だからこそ、独自の視点で、他の人が見逃していたアングル(注)で素晴らしい写真を撮ることができれば、多くの人たちによさが認めてもらえる環境が整ったといえるのではないだろうか。 (注)アングル:角度

10. 写真とテレビの映像について、筆者の考えに合うのはどれか。

1. 想像力を働かせて写真を見れば、映像と同じような臨場感が得られる。

2. 写真のほうが原始的だからこそ、見る人に簡潔に意味が伝わる。

3. 写真は一瞬しか写し出されていないため、映像より見る人の想像力が必要だ。

4. 写真は写っていないものがある分、見る人が自分を重ね合わせるのが難しい。

11. 「名作」と呼ばれる写真について、筆者はどのように考えているか。

1. 若い時に価値が分からなくても、年を取るとよさが分かるようになる。

2. 多くのメッセージを含んでおり、見る人に様々な感情を呼び起こす。

3. 明確な一つのメッセージが伝わるような構成力や力強さがある。

4. 見る人や心の状態によって、受け取るメッセージが違う。

12. 写真について、筆者の考えに合うのはどれか。

1. 誰もがどこでも撮れる時代になり、心に迫るものを撮ることが難しくなっている。

2. 想像力を生かせば、他の人が見逃していた視点で撮れる環境が整ってきている。

3. 他の人にはない視点で想像力を呼び起こすものが撮れれば、力を持ち続ける。

4. 技術の進歩で誰でもよいものが撮れるようになり、力が再認識されている。

大学2回生(注1)の頃だったか、フランス語の文章を講読する授業に出席していたところ、なにかの折に先生が、「分かるものを読むのは読書ではなく、分からないものを読むのが読書です」と仰った。 (中略) 先生の言葉を聞いて当時の私は、自分がそれまでに知った限られた知識を確認するだけの本を読むのではだめで、自分の知らない考え方や感じ方にふれることによって、自分の偏狭(注2)な物の見方を問い直さなければならない、と先生は言いたかったのだろうと思った。先生の言葉に私は感銘し、その時以来、当時の私にとってとりわけ難解であったフランス現代思想の哲学者や思想家の本を、理解できるようになるまでとことん読むように心がけた。 そんな読書を続けるうちに、はたして、難解な本を理解するだけの読書でいいのだろうかと自問するようになった。というのも、理解するということが、そもそも良いことかと問いかける哲学者や思想家の本を読んだからだ。理解するとは、人であれ物であれ、その人やその物を理にかなった(注3)仕方で知る良い方法だとたいていは言われる。 しかしながら、理にかなった仕方で、その人の人格なり、その物の本質なりを知ることには、暴力的なところはなにもないのだろうか。理解するということは、唯一存在しているこの人やこの物を、その単独な在り方ではなく、ほかの入やほかの物と共通する一般的な在り方で捉えることだ。私たちがなにかを知ろうとする際に頼りとする概念や観念は、様々な在り方をする諸々(注4)の存在に当てはまるから役に立つ。 概念や観念は私たちが知ろうとする対象の在り方に力を加えるわけではないのだから、知る私たちと知られる対象の間に立つ中立的な光のようなものだと見なされている。的確な概念や観念をとおして諸々の存在を理解するのは、正しい学間だとされてきた。 しかしながら、たとえそれが正しくても、この人やこの物が持っている単独のなにかは、理解では捉えられないまま、知それ自体のなかで忘却(注5)されてしまいがちだ。なにかを理解できるということは、たしかに人間の優れた能力である。が、それは武器であり、この至高(注6)の武器の前では、およそ存在するものはなんであれ、ほとんど抵抗することができないということを心得ていなければならない。 (注1)2回生: 2年生 (注2)偏狭な:偏っていて狭い (注3)理にかなった:合理的な (注4)諸々の:ここでは、あらゆる (注5)忘却する:忘れ去る (注6)至高:最高

13. 筆者は先生の言葉を聞いて、なんのために読書をするようになったか

1. 難解な物の見方や考え方を理解するため。

2. 自身の物の見方や考え方を再考するため。

3. 自身の知識を増やすため。

4. 自身の知識が正しいかどうか、確認するため。

14. 理解するとはどういうことか。

1. 概念や観念に頼らず、人や物を中立的に捉えること。

2. 概念や観念にとらわれず、人や物の本質を捉えること。

3. 概念や観念を利用して、人や物を単独な在り方で捉えること。

4. 概念や観念をとおして、様々な人や物を共通の枠組みで捉えること。

15. 理解することの問題点について、筆者はどのように考えているか

1. 学問としての正しい在り方に、疑問を持たなくなる。

2. 諸々の存在を個別性や独自性でしか捉えらななる。

3. 人や物の個別性や独自性が見えなくなるおそれがある。

4. 人や物の本質に力を加えて、ゆかめてしまう可能性がある。

以下は、森林を守るボランティア活動をしている人が書いた文章である。 世界的に森林や自然の維持、復元に対する関心が高まってきたとき、この気運(注1)を支えた初期の理論は、人間中心主義的な森林・自然維持論、つまり人間の生存や未来にとって森林や自然の維持は不可欠であるという理論であった。いわばそれは、人間のための森林・自然維持論であった。ところが、この考え方は、たちまち暗礁に乗り上げる(注2)。 第一に、人間のための森林・自然維持論であるかぎり、人間のための森林・自然の開発論を否定できなくなる。なぜなら、どちらも「人間のための」という共通の基盤の上にたっている以上、その違いは価値観の違いにすぎず、人間の価値観を統一することなどできないばかりでなく、すべきでもないからである。 第二に、「人間のための」といっても、その内容はさまざまである。農山村に暮らす人びとと都市の市民とでは、その感じ方は同じではないし、たとえば同じ山村に暮らす者でも、林業経営をしている者とそうでない者とでは、考え方が異なってくる。人と森の関係は多様である以上、どうすることが人間のための森林自然の維持なのかと問われれば、その答えはさまざまである。 第三に、「人間のための」という発想にたつかぎり、「人間のためにならない」自然は破壊してもよいということになりかねない。 こうした問題点があったために、「人間のための」論は、つまり人間中心的な森林・自然維持論は、たちまち破綻してしまった。自然保護思想の流れをみるなら、それに代わって生まれた理論は、自然中心主義的な考え方であった。それは、人間のためになろうとも、ならなかったとしても、自然はそれ自身のうちに生存権をもっており、その生存権は保障されなければならないというものであった。 ところが、この考え方にも問題点があった。なぜならこの理論では、原生林や原生的な自然を維持する理論としては有効でも、たとえば日本のような、長い歴史のなかで自然と人間とが相互に影響を与えながら、それぞれが暮らしてきた地域の森林・自然の問題をよく説明できないからである。 一例をあげれば、かつて農山村の人びとは、自分たちの暮らしを守るために、人家の近くに里山天然林をつくりだした。それは、徹底的に人間の手を加えた天然林である。 (中略) 森林ボランティアとは、自発的に森の中で仕事をする人びとである。そうである以上、私たちは、人間中心主義的な立場にたっことも、自然中心的な立場にたつこともできない。 とすれば、どうすればよいのだろうか。この問いに対して、私たちは、森林・自然と人間の関係を持続的に維持していくことこそが重要だと考える。単純に人間の未来を守ることでも、森を守ることでもない。森林と人間の関係を維持することによって、森と人とが相互的な依存関係をもっている日本の森と人の営みを守っていくことである。 (注1)気運:ここでは、意識の高まり (注2)暗礁に乗り上げる:ここでは、進められなくなる

16. 「人間のための論」の問題点として、筆者の考えに合うのはどれか。

1. 人間のための森林・自然の維持に、結びついていないこと。

2. 人間がいなければ、森林自然は維持できないと考えていること。

3. 農山村に暮らす人間の考え方が優先されすぎていること。

4. 森林・自然の維持に対する考え方は、立場によって異なること。

17. 筆者によると、日本に関して、自然中心主義的な考え方が問題なのはなぜか。

1. 人間の介入によって、維持されてきた森林・自然もあるから。

2. 人間が手を加えずに、原生林や原生的な自然を維持するのは難しいから。

3. 自然の維持よりも人間の暮らしを守ることが優先されているから。

4. 自然の生存権を保障することについて、人間の理解が得られないから。

18. 筆者によると、森林ボランティアの役割とは何か。

1. 人間を中心として、森林・ 自然との関係を維持していくこと。

2. 人間の営みを制限して、森林・自然との新たな関係を見付け出すこと。

3. 森林・自然と人間が共存できる関係を維持していくこと。

4. 森林・自然が持続できるように、できるだけ自然に任せること。

そもそも私は、組織内の人間の目や無理やり一致させる必要はないと思っている。要は、それぞれの目標を達成することが、結果として組織としての目標達成につながればいいのだ。そのために大切なのは、組織の目標と個人の目的に接点を持たせ、双方が最大限の利益を得られるような柔軟性を持った仕組みをつくることである。 ラグビーでいえば、チームの目標はもちろん「勝つこと」である。しかし、チームを構成する選手には、それとは別に、それぞれの目的があるかもしれない。「自分のスキルを向上させたい」「日本代表に入るため」「プロ契約をしてもらうため」「ただ、好きだから」というように..... こうした個人の目的を無視し、ただ「勝つ」というチームの目標だけのためにプレーを強要してしまっては、チームから活力が失われてしまうだろう。 (中略) たとえば、職場を選ぶ際に「やりたいことをできるかどうか」「自分の資質や可能性を活かせるかどうか」を第一義に考えるのは当然であるが、最近の若い人の中には「仕事がおもしろくないのなら、嫌な仕事をするくらいなら、さっさと別の企業に転職したほうがいい」と考える人間が増えているという。自分に関係のあること以外にはまったく興味を示さず、会社全体としての目標達成よりも個人の目的や利益を優先させる人間も少なくないようだ。 ①こうした傾向について「最近の若い奴は我慢が足りない」とか「自己中心的だ」と結論づけてしまうのは簡単だ。 だが、私はむしろこう考える会社に対する「価値観」やそこに所属するための「目的」が多様化しているのだと。つまり、かつてのように組織の中で目標が一元化されえなくなったのが「今」という時代なのである。これはよい悪いとか、正しいか正しくないかという以前に、現実なのだ。 であるならば、そうした状況を②嘆いてもしかたがない。むしろ組織にとって重要なのは、彼らをいかに活かしていくかということだろう。「そんな考え方は通用しない」とか「おれの言うことが正しい」と、指導者が旧来の価値観を押しつけたりしていては、若い人たちはついてこない。離れていくだけである。結果として組織の力は低下してしまう。 それならば、まずはそれぞれの目的を「許容」してはどうか。そのうえで、「共有」すべきはチームの目標であると全員の意志を統一させ、各自の役割を責任を持って果たさせるのである。そうすれば、個人のモチベーションを下げることなく、チームとしての目標達成につながっていくはずである。 それは、これからの組織運営に欠かせないことだと思う。 (注1)第一義に:最も重要なこととして (注2)旧来の:昔からの、 (注3)モチベーション:意欲

19. ラグビーの例で筆者が述べていることは何か。

1. 高い目標を持った選手が集まらなければ、チームの力は伸びない。

2. 勝つことだけをチームの目標にしても、個人のスキルは向上しない。

3. 一人一人の目的を考えず勝つことだけを求めたら、チームは強くならない。

4. 一人一人の目的とチームの目標が一致しないと、チームの活力が失われる。

20. こうした傾向とはどのようなことか。

1. やりたくない仕事をしようとしない。

2. 転職することがよいことだと考えている。

3. 自身の興味や関心が変わりやすい。

4. 自身の資質や可能性を活かす努力をしない。

21. 嘆いてもしかたがないと筆者が考えるのはなぜか。

1. 個人の「目的」と組織の「目的」が一致することはありえないから

2. 個人の「価値観」や「目的」のよい思いを考えても、意味がないから

3. 組織によって「価値観」や「目的」が異なっている時代だから

4. 組織の中に多様な「価値観」や「目的」を持った人がいる時代だから

22. 作者によると、組織運営のために必要なことは何か。

1. 目標達成のために、意志が統一しやすい組織を作ること。

2. チームで価値観を共有し、仕事に対する全員の意欲を高めること。

3. 個人の目的を認めて、チームの目標のために役割を果たさせること。

4. 個人の目的と組織の目標を一致させて、各自に責任を持たせること。

以下は筆者が本の中で「哲学の役割」について書いたものである。 ここで、大切なのは、とりわけ科学の意義と限界をしっかりと見定めて、人間的知の全体をほんとうに見渡しうる哲学的知の立場を我がのものとすることにある。というのは、科学的知は、二つの限界を持ち、その限界内でしか意義を持たないからである。 一つには、科学的知は、対象を突き放して、第三者的立場で、自分に関わりのない客観的事象として眺め、しかも、必ずそのつど、特定の観点からだけ対象を扱い、自分が関心を持つ側面だけを取り上げ、それ以外の局面を捨象し、けっして対象の全体を見ようとはしないのである。だから、科学が進むと、細分化が必至となり、隣の研究室でやっていることが、お互いにはまったくわからなくなる。専門化と特殊化が、科学の運命であり、いかに学際化が叫ばれても、ネ良本的には①この傾向には歯止めが利かない。それはちょうど、近代的病院で、病気を扱う諸部門が、外科や内科等々として、細かく分かれ、人間全体を扱ってくれる部署は存在しないのと、同様である。 二つには、科学的知は、対象を、自分と無TIU 関係な事柄として扱う客観性がその特色をなしているので、そこでは、私たちが、自己として、主体的に決断して実践的に生きてゆく行為の問題を、本質的に扱うことができないのである。というのも、ある状況のなかで、いかに生きるべきかをよく考えて、決断し、行為してゆくためには、来し方行く末をよく熟慮して、もはや無い過去と、いまだ無い将来とを視野に収めながら、現在の状況のなかにつき入ってゆかねばならない。しかし、そのような無いものを視野に収めながら、記憶と期待という熱い思いを抱きつつ行為することは、知覚的に有る現在の事実に検証されることによってのみ確実性を得ようとする科学の実証性とは、まったく別個の事柄だからである。客観的な事実確認のみを大事と考える科学の次元と、人生の岐路に立って、右すべきか左すべきかに思い悩む行為者の立場とは、別個の事柄である。②科学は、いかに生きるべきかという後者の問題を、本質的に扱うことができないのである。 したがって、科学とは別に、存在の全体を視野に収め、世界のあり方の原理的全体を考慮して、世界観の知を育むと同時に、そのなかで、人間はいかに生きるであるかという、人間の主体的な行為のオ良本を考究して、人生観の知を形成するところに、哲学的な知の本質的な成立根拠があることになる。哲学が愛し求める真実の知とは、こうした人生観:世界観の根本的な知にほかならない。 (二郎『現代の哲学』による) (注)捨象する:捨て去る

23. 科学的にものごとを見るということを、筆者はどのようにとらえているか。

1. 現在の事象の一部だけを取り上げて、客観的な立場で検証する。

2. 関心のある対象だけを客観的な立場で検証し、未来を予測する。

3. 過去の経験をもとにして客観的な立場で現在の状況を扱う。

4. 人間の知の全体を客観的な立場からだけとらえる。

24. この傾向とあるが、どのような傾向か。

1. 近代的な研究を行う部門がさらに増えてきた。

2. 特殊な研究対象が排除されるようになってきた。

3. 研究対象をより実践的にとらえるようになってきた。

4. 専門分野が以前より細かく分かれるようになってきた。

25. 科学は、いかに生きるべきかという後者の問題を、本質的に扱うことができないとあるがなぜか。

1. 客観てきな事実確認を重視するものだから。

2. 現在の行為だけを主体的に扱うものだから。

3. 人間全体を解明することができないから。

4. 人間の考えや行為の多くをまだ実証できないから。

26. 哲学的知の重要性はどこにあるか。

1. 人間の生き方の根本を扱えること。

2. 主体的に考え方法を示せること。

3. 科学的な世界を視野に入れられること。

4. 世界のあり方を客観的にとらえられること。

地球の長い歴史の中で生物は進化と分化し、生物種の数は基本的には増える傾向にある。地球上の生物の種類が急激に増えたのが、カンブリア紀と呼ばれる約五億年前のことで、生物種の「ビッグバン」と呼ばれることもある。だが、その後生物の歴史の中では、過去五回、生物種の数が急激に減少する「大絶滅の時代」があったことが化石の分析などから分かっている。 (中略) 現在確認されている種の絶滅は、ほんの氷山の一角である。多様な生物が生息している熱帯林が減少する速度からすると、一年間に一千万種のうち二万七千種が絶滅していると推定されるとの研究結果が報告されている。現代は地球の歴史の中で六回目の生物の大絶滅時代だと言えるのだ。 六回目の大絶滅時代は、過去の五回と多くの点で違う。一つは生物が絶滅する速度が非常に速いということだ。化石の分析などから推定された自然界での生物絶滅の速度は百万種に対して一年間に一種というペースだ。多くの研究は、現在の生物絶滅の速度は自然に起こる生物絶滅の速度の百~千倍で、その速度はほとんど速くなっていると指摘している。今回の大絶減が、ほとんどが人間活動が原因で起こっているという点も過去と大きく異なる。自然に起こる絶滅は止めることはできなかった。だが、今回の大絶滅は人間の行動パターンが違っていれば起こることはなかった。逆に言えば、人間が行動を改めれば、絶減を食い止めることができるかもしれないということになる。 過去の大絶滅の後では、恐竜が減った後で哺乳類が栄えるようになったように、ある種の生物がいなくなったことで、他の生物が生息地を広げることができるようになり、その後比較的短時間のうちに種の数は増加に転じている。 だが、今回の大絶滅の場合は、速度が速いために生物が変化について行けない可能性がある。しかも、新たな生物が生まれる「ゆりかご」となるような湿地や熱帯林、浅い海などの場所は、人間の開発行為によって破壊され、汚染されている。大絶減からの復活につながる生物進化の力も、人間が奪っている可能性が高い。今この地球上で起こっている「第六の大絶滅」は、過去の五回とは質的に大きく異なり、地球の生態系にとって取り返しがつかないものとなる可能性が否定できない。 現在のペースで熱帯林やサンゴ礁、湿地などが破壊されたら、生物種の絶滅や生物多様性の損失は今後も急速に進むことが心配されている。しかも、今世紀半ばくらいには、地球温暖化の進行が生物種の絶減に拍車を掛けることになることも懸念されている。このままでは、地球の長い歴史の中で例がないほど生物多様性の減少が著しい、傷ついた地球を次世代に引き渡すことになってしまうのである。 (注)ゆりかご:ここでは、生物の生育に適した環境

27. 六回目の大絶滅の前までは、生物種の数はどのように変化してきたか。

1. 約五億年前をピークとして、その後急激に減少してきた。

2. 約五億年前に急増した後、五回の急激な減少を経験したが、増加してきた。

3. 約五億年前に一度増加したが、その後は五回の急激な減少を含めて減り続けてきた。

4. 増加し続けてきたが、約五億年前に急激に減少し、その後再び増加してきた。

28. 今回の生物の大絶滅が過去と異なるのはどのような点か。

1. 絶滅の速度は速くなっているが、生息地を広げて増加する種もあること

2. 絶滅の速度が非常に速くなるとともに、原因も分からなくなっていること

3. 人間の行動パターンが変化することで、生物種の数は増加していること

4. 人間の行動によって、自然界での絶滅の速度が非常に速くなっていること

29. 現在の地球について、筆者はどのように考えているか。

1. 人間が開発のペースを落とせば、生物種の絶滅は食い止められる。

2. 人間が開発行為を続ければ、地球の生態系はさらに破壊されるだろう。

3. 人間が開発行為をやめて、破壊された自然を元に戻さなければならない。

4. 人間が開発行為をやめても、生物多様性の減少は避けられない可能性が高い。

シアノバクテリアと藻類が誕生し、地球上を酸素で満たすまでには 20 億年以上の時間を要したのに対し、現代人が地球環境を大きく変えるようになったのは、たかだかここ 100~200 年のことである。光合成生物が大気環境を変えるのに費やした時間と比べると、人間が環境を変えた時間はあっという間といえる。そのため、大昔の非常にゆっくりとした大気環境の変化は、当時の生物たちには適応するのに十分な時間があったが、今の急速な環境変化には、多くの生物種が適応できずに絶滅する可能性が高いかもしれない。そのため、人間は①大きな問題を起こしているのだ、という人もいるだろう。 ところが、地球の長い歴史の中では、人類の活動よりも短時間で地球環境を大きく変え、生態系を非常に大きく攪乱した事件があった。今から 6500 万年前の中生代白亜紀末の大隕石の衝突である。これにより飛び散った破砕物が大気中で浮遊し(注1)、太陽光の地上への到達を妨げたといわれている。それが植物による光合成を強く抑え、また地上の寒冷化を引き起こしたと考えられている。そしてこのとき、当時優占していた(注2)恐竜をはじめ、多くの生物が絶滅することになった。ところが、これほど急激で大きな生態系の攪乱に直面しても、生き残ったものがいた。そして、その生物たちは、新たにつくられた環境に適応しながら、多様な生態系をつくってきたのである。 ②このことを考えると、生物というものはとてもタフで、打たれ強いものであることがわかる。すると、今、人類が強い力で地球環境を変えて生態系を大きく攪乱しても、人類は滅びるかもしれないが、その急激に変化する環境をうまく生き抜き、新たにつくられた環境の中で繁栄する生物種が必ず出てくるに違いない。そして、生物がそこに存在することができれば、そこには生物たちの相互関係が生まれ、食物連鎖がつくられ、きちんと機能する生態系がつくられるのである。そして、その新しい生態系をつくっている生物たちの中には、「大昔、ヒトという生物がいて、彼らは我々が住みやすい地球環境をつくってくれたとてもありがたい生物だったんだよ」と、子孫に語り継いでいるものもいるかもしれない。 このように考えると、生態系の善し悪しを考えるときには、誰を中心にするか、いつを基準とするのかによって評価が大きく変わることがわかる。したがって、議論をするときには、その基準を決めなければならないだろう。 (注1)浮遊する:浮かび漂う (注2)優占している:ここでは、数が多い

30. ①大きな問題とはどのような問題か。

1. 特定の生物種だけが影響を受けるような環境変化を起こしていること

2. 大きな環境変化を起こして、多くの生物種を絶滅させてしまったこと

3. 急速な環境変化を起こして、多くの生物種を絶滅させかねないこと

4. 影響が広範囲に及ぶような大きな環境変化を起こしたこと

31. ②このこととは何か。

1. 多くの生物が滅びる事態が起きても、耐えうる生物種がいたこと

2. どんな生物にも新たな環境に適応する力があったこと

3. 生態系が乱れた結果、個々の生物がさらに強くなったこと

4. 生態系が壊れても、すぐに元のように修復されたこと

32. 人類が滅びた場合の生態系について、筆者はどのように考えているか。

1. 環境を自ら変えることで生き残る生物種が現れる。

2. 人類が繁栄していた以前の生態系に戻る。

3. 新たな環境変化が起きず安定する。

4. 新たに繁栄する生物種が現れる。

33. 生態系について、筆者の考えに合うのはどれか。

1. 人間中心の見方とは別の視点で評価することもできる。

2. 人間以外を基準にして議論するべきである。

3. 生態系の善し悪しは環境を基準にして考えるベきである。

4. 生態系の評価は時代とともに変わっていくものだ。

脳科学はヒトそのものの仕組みを明らかにしようとする学問です。そのため、その成り立ちから人々の耳目(注1)を引くように運命づけられていると言えます。脳科学は、誰もが青春の一時期に悩む「自分って何だろう」という疑問に科学の力で挑むという、考えてみたら少し青臭い(注2)学問だったりするのです。 だからというわけではありませんが、人々の口に上りやすく、そのため伝搬のスピードも他の学問と比べて早いように思います。特に、自己(注3)の知覚の裏をかかれるようなさまざまな現象、たとえば錯視現象や無意識と意識の話などは、自己恒常性、つまり自分がいつも自分であり続けることに関わるだけに、他のどんな科学より人々の気持ちを鷲掴(注4)みにします。そのせいで、脳機能を理解する前に現象だけが先走って人々の間に広がっていくことも多い学問です。もちろん、それは何より面白いからです。 そんな脳科学も、昨今の説明責任という考え方や社会還元という意味合いで、一般の人々へなんとか知見のフィードバック(注5)をしなければならない圧力にさらされています。少し前には、脳科学の研究成果が新聞に掲載されることはあまりありませんでしたが、今ではプレスリリース(注6)も当たり前に行われますし、そこではできるだけ面白く人々の興味をひきつけるストーリーを作りがちになります。本当は そういう色気は基礎科学に馴染まないのですが、メディアからの要請があると、僕たちはなんとかそれに応えようとして、浅薄な脚色をして本当の面白さをゆがめてしまいがちになります。 そういう「メディア対応」と呼ばれる技術も科学者に必要とされている現代は、ある意味で科学者にとって不幸な時代なのかもしれません。 (中略) 昨今の過剰なメディアの脳科学の取り上げ方は、科学者の説明責任を遥かに逸脱したレベルであるように思えるのです。そういうメディアの要求に、誠実に対応しようとすればするほど、科学者は自分をすり減らすことになるでしょうし、だんだんと科学の現場から乖離せざるを得なくなるでしょう。それは、優秀な科学者を潰すことになります。 科学者の価値は、何よりも科学の現場に居続けることにあります。科学的知見に裏打ちされない(注7)空論を弄ぶのではなく、常に研究の現場に自分をつなぎ止め、足を杭で打ち付けてでも科学の現実から離れないようにすること。そういう決意をもってメディアに対応するのであれば、フワフワと遠くに行ってしまうことはないでしょう。 (注1)耳目を引く:注意を引く (注2)青臭い:ここでは、純粋すぎる (注3)自己の知覚の裏をかかれる:ここでは、自分が思いもしなかった (注4)鷲掴みにする:ここでは、強く掴む (注6)プレスリリース:メディア向けの公式発表 (注7)〜に裏打ちされる:〜に裏づけられる

34. 脳科学について、筆者はどのようにとらえているか。

1. 他の学問より早いスピードで進歩している。

2. 人々の脳機能を高めることに貢献している。

3. 身近な疑問を扱っており、多くの人々に理解されている。

4. 脳の働きが理解されないまま、人々の興味だけが先行している。

35. そういう色気とは、どのようなことか。

1. 科学者が科学本来の面白さを前面に出そうとすること。

2. 科学者が事実を実際より面白くして伝えようとすること。

3. 科学者が一般の人々に分かりやすく科学を説明しようとすること。

4. 科学者が新間に掲載されるような興味深い研究をしようとすること。

36. 現代のメディアと脳科学の現場との関係はどのようになっているか。

1. メディアが、研究内容に介入するようになってきている。

2. メディアの過剰な要求のため、研究の現場に負担がかかっている。

3. 脳科学に関する情報提供の機会が、メディアに奪われている。

4. 脳科学本来の面白さが、メディアに取り上げられなくなっている。

37. 筆者によると、昨今のメディアとの関わりにおいて、科学者はどうあるべきか。

1. メディアを自身の研究のために活用するべきだ。

2. メディアを通じて研究の現場から情報を発信するべきだ。

3. メディアへの対応よりも、研究を優先するべきだ。

4. メディアの要求には対応せず、研究の現場を大切にするべきだ。

タレントがその私生活を自分からマスメディアに公表することは、いまではまったく珍しくなくなった。これまでマスメディアに私生活を暴露され憤慨してきた彼らが、自らの結婚や離婚、病気などについて、自分からファクスでマスメディア に連絡する。もちろん一般の人びとにとっては、知らされてもほとんど関係ない話ばかりである。彼らの行動を自己宣伝や売名行為ととらえて眉(注1)をひそめる人も少なからずいる。一方でプライバシー保護を訴えておきながら、都合のいいときだけ私生活をさらけ出そうとする、というわけだ。 だが別のとらえ方はこうである。彼らは先手(注2)を打とうとしているのだ。マスメディアに勝手に詮索(注3)され、おもしろおかしく記事にされる前に、自分の方から情報公開してその出ばな(注4)をくじこうという、いわば他人による勝手な物語化に対する予防措置である。 (中略) マスメディアによって自分のイメージをつくられてしまいそうな人びとにとって、自分自身の情報を自らコントロールすることの重要度は高い。そうしなければ、他人によって勝手な<私>、自らの物語的分身、すなわちファンタジー・ダブルがつくられて、社会を独り歩きし始めることになりかねないからだ。そのためにマスメディアを利用しようとするのである。 昨今、人びとはマスメディアに対抗する強力な情報発信ツールを手に入れた。それはインターネットであり、またそれを活用したウェブサイトやブログ(注5)である。人びとはそれらによってさまざまな自分の活動、知識や趣味、日常生活、そしてときには心境や悩みなどまで公表するようになった。<私づくり>の主導権を確保するうえでは、画期的な手段である。 実際の効果がどの程度かはわからない。だがイメージづくりのイニシアティヴをマスメディアに握られていた人びとにとって、自力で公に情報発信する有力な手段を手に入れたことに変わりはないだろう。人びとは、今度は自らの手でつくった自分自身の物語(ファンタジー・ダブル)を世に出そうとする。 これはごく一部の人びとの話だと思われるかもしれない。だがこのことからは、一般的にプライバシーがどのように私たちの自己とかかわっているかをはっきり見て取ることができる。彼らに限らず、一般的にプライバシーとはく私づくり>のイニシアティヴの問題である。 近代社会では、このイニシアティヴは基本的に各個人にあるとされてきた。自分自身がどのような人間になるか、そしてどのように生きるかは、その人自身の主体的な意思や選択にゆだねられる。これは個人の人権の一つとされてきたのである。 だがこの権利が奪われ、他人が勝手に個人の自己=<私>をつくろうとし始めるとき、私たちはプライバシー侵害を訴える。そして何とかく私づくり>のイニシアティヴを自らのもとに引き戻そうとする。 (注1)眉をひそめる:不快な気持ちを表情に出す (注2)先手を打つ:ここでは、先に動く (注3)詮索する:細かいところまで調べる (注4)出ばなをくじく:相手が始めようとしていることを妨げる (注5)ブログ: 日記形式のウェブサイト

38. タレントが私生活を自分からマスメディアに公表することに対して、一般の人びとの間にはどのような意見があると筆者は述べているか。

1. プライバシーに対する姿勢が一貫していない。

2. プライバシー保護の流れに逆行していて好ましくない。

3. マスメディアに都合よく利用されているだけだ。

4. マスメディアを利用した情報は信じることができない。

39. 筆者は、なぜタレントは自分から私生活を公表するようになったと考えているか。

1. 多くの情報を公表することで世間にさらに注目されたいから

2. プライバシーを守っても自分の宣伝にならないと考えたから

3. 他人に勝手なイメージをつくられるのを未然に防ぎたいから

4. 自分のすべてを公表すれば自分を正しく理解してもらえると考えたから

40. 強力な情報発信ツールとあるが、筆者はなぜ強力だと考えるのか。

1. 自身の伝えたいイメージが確実に伝わっていくから

2. 自身についての情報を自力で世の中に発信できるから

3. マスメディアより多くの人びとに情報を発信できるから

4. マスメディアによる自身のよくないイメージを消せるから

41. 現代社会における<私づくり>について、筆者はどのように考えているか。

1. <私づくり>において、人は主体的であろうとする。

2. <私づくり>において、個人の人権が守られるようになった。

3. <私づくり>の主導権が他人に奪われてしまっている。

4. <私づくり>の主導権を自身のもとに引き戻すことはできない。

(1) 日本の森の生態系は、生物多様性が高いといわれています。生物多様性が高いのは、多くの生物の生息(注1)城になりうる多様な環境があるからです。では、なぜ、多様な環境があるかというと、人間が自然に長期的に継続的に介入してきたということが大きく関係しています。 人間がいない状態で、自然が、自然の作用(注2)のないがままに置かれていた時代の植生(注3)を「原植生」と呼んでいます。この時代、日本列島は現在の状態よりも生物の生息環境として単純なものであったはずで、そこに生息する生物の多様性は現在よりも低かったのではないかと私は考えています。 これまで、人間は、人間の都合で、自然を改変してきました。しかし最近になって、多くの人が都市に集中して住むようになり、食料も木材もエネルギーも海外から輸送してくるようになって、これまでのように自然に長期的、継続的に介入する必要がなくなりました。人間の介入が止まった森は、自然の作用によって変化していきます。そのまま放っておけば、人間がいなかった時代の自然に戻るかというと、そう簡単ではありません。 人間の介入は土壌の奥深くまで及んでいます。植生の回復に比べて、土壌の回復には長い時間がかかるので、まずは土壌が回復しない状態で、その上に植生が成立することになります。この状態を「潜在自然植生」といい、原植生とは区別されます。 (中略) 現在の日本の生物多様性は、人間による自然への長期的、継続的な介入の結果としてもたらされたものです。その介入は、決して生物多様性のためではなく、人間が生きていくために燃料、木材その他を収奪する(注4)ためだったのです。もし現在の状態が生物多様性が高い状態だとすれば、それはあくまで副産物として得られたものなのです。今後、生物多様性の維持のために、自然に人間が介入し続けるべきだ、という主張があります。しかし問題は、そのための資金を誰が出すかです。とくに、公的な資金を投入するかどうかは、よく考えてからのほうがいいと思います。 自然が、自然の作用によって変化していくのに逆らって、人間が作業をしようとすると膨大な手間と時間がかかります。その手間に見合う利益が、人間にもたらされるのか、また、放置して自然の作用に任せておくことが、人間や生物にどのような損失をもたらすのか、正確に理解することが求められています。 (注1)生息生存 (注2)作用のなすがままに:ここでは、作用のままに (注3)植生:ここでは、植物群の状態 (注4)収奪する:奪い取る

42. 人間がいない時代の日本の森の生態系について、筆者はどのように述べているか。

1. 生息環境が単純で生物が生息しやすかった。

2. 生物が環境の影響を受けることが現在より少なかった。

3. 生物もその生息環境も現在ほど多様ではなかった。

4. 生物もその生息環境も自然の作用により多様化しつつあった。

43. そう簡単ではありませんとあるが、なぜか。

1. 植生と土壌の回復には、人間が介入したのと同じ時間が必要だから

2. 人間が介入した土壌には、植生が成立しにくいから

3. 人間が介入した土壌の回復は、植生の回復より時間がかかるから

4. 人間が介入した植生と土壌は、自然に回復することはないから

44. 現在の日本の生物多様性について、筆者はどのように述べているか。

1. 人間が自然の恩恵を受けようとして生み出したもの

2. 人間が生存するために行った介入によって生じたもの

3. 人間が生物多様性を目指して介入した結果生まれたもの

4. 人間の介入が行われなかった土壌で自然に生じたもの

45. 人間の自然への関わりについて、筆者はどのように述べているか。

1. 自然の作用による変化を見守り続けるのがよい

2. 自然への介入の有無による利害を十分見極める必要がある

3. 生物の損失より人間の損失が少ない場合は、自然に介入すべきだ

4. 人間が介入した自然をもとに戻すために、資金を投じて対策をすべきだ

最寄り駅へと向かう途中、骨董屋さんの前を通る。 その店が越して来たのは十年ほど前だろうか。はっきりした記憶はないのだが、夫のひとことで興味を持った。「毎日どんどん売れる商売じゃないだろうけど、それにしても客が入っているのを見たことないよね」という。確かにいつもひっそりと、主とおぼしき人は店の奥じっと座っているばかり。宅配便の梱包された包みがたくさん置かれていることから、ネット販売専門の店なのだろうか。夫はその後も①不思議がっていた。 それから一年ほどして、ふいに謎が解けた。 面識はないが、時おり読んでいた同世代の女性のブログ(注1)にこの店を訪ねた話が載っていた。壊れてしまった陶器の修理を頼みに行ったというのである。漆を使った金継ぎ、銀継ぎと呼ばれる手法(注2)で損なわれた部分を修復するのだが、その仕上がりは現跡ではなく、景色に見立てることができるほど美しい。 思いがけない近所にそんな専門の工房(注3)があったとは。新鮮な驚きとともに、②ひと筋の光が射し込んで来る思いがした。我が家にも欠けたからといって捨てられず、破片をそっと薄紙に包んだままにしているものがある。祖母が求め、そして壊してしまった十客揃いの小鉢(注4)のひとつ。義父が好んで使っていたという杯。これらをもとの形にもどすことができたら、どんなに心和むことだろう。 さっそく店を訪ねてみると、「やあ、いらっしゃい」と主はまるでなじみの客のように迎えてくれた。作業の合間に手をゆるめて(注5)いることがあって、店の前の人の行き来を眺めている。「だから近所に住んでいる人のことはなんとなくわかるんです。」見ているのはこちらばかりと思ったら大間違いだ。 ③すっかり気が楽になって、こちらの事情を打ち明けた。 (中略) 買替えた方が安あがりとわかっているものでも、使いつづけた愛着があって手放せないという人が増えている。一方で、高価な器を使うお料理屋さんが、段ボールいっぱい送りつけてくることもある。「前に修理したものがまた新たに壊れてもどってきたり。時々、どういう扱いをしてるのかなと思うことがありますよ。」 形あるものはいずれは壊れる。この道理があるから、歳月を経て伝えられたものに感謝の念も湧くし、儚さと美しさは同義でもある。うっかり手を滑らせる(注6)瞬間は誰にもあり、取り返しのつかない(注7)事実に直面すると、ため息が出るほど心に重い。 金継ぎはそんな心の痛手までやさしくいたわってくれる伝統の技術だ。もしもの時に助けてくれる人がいると思うと心底有り難い。けれど、だからこそ指先には神経を使ってぞんざいな扱いはすまいと、見事に修復された器を手に思っている。 (青木『春しの手帖』2014年10-11月号による) (注1)ブログ: 日記形式のウェブサイト (注2)漆を使った金継ぎ、銀継ぎと呼ばれる手法:陶器の修理方法の名称 (注3)工房:ここでは、仕事場 (注4)十客揃いの小鉢:千間前った小さな器 (注5)手をゆるめる:ここでは、休憩する。 (注6)手を滑らせる:ここでは、落とす (注7)取り返しのつかない:元の状態に戻すことのできない

46. 不思議がっていたとあるが、何を不思議がっていたか。

1. 宅配便の荷物が梱包されたまま置かれていること

2. 十年経っても店の様子が何も変わらないこと

3. 店なのに客がいるのを見たことがないこと

4. 店主を一度も見たことがないこと

47. ひと筋の光が射し込んで来る思いがしたとあるが、なぜか。

1. 同世代の女性が自分と同じ思いを抱いていることがわかったから

2. 割れてしまった思い出深い陶器を直せそうだとわかったから

3. 不思議に思っていた店がどのような店かわかったから

4. 専門的な技術を近所で見られることがわかったから

48. すっかり気が楽になってとあるが、なぜか。

1. 店主も自分のことを知っていて、親しく接してくれたから

2. 店主は話しづらい人だと思ったが、そうではなかったから

3. 店主が仕事の手を休めて話しかけてくれたから

4. 店主が以前と同じように接してくれたから

49. この文章で述べられている経験を通して、筆者が強く思ったのはどのようなことか。

1. 形あるものは壊れるからこそ、愛情を持って使いたい。

2. 壊れるものには美しさがあり、作り手への感謝の念を忘れてはならない。

3. 壊れたものは修復できても、壊れたときの心の痛手はなくならない。

4. 壊れたものを直す技術があることに感謝しながら、大事に使いたい。

互いに視線を向けるという場面では、サルと人間には大きな違いがある。 サルにとって相手をじっと見つめるのは軽い威嚇になり、強いサルの特権である。弱いサルは、見つめられたら決して見返してはいけない。挑戦したとみなされて攻撃を受ける羽目になるからだ。強いサルの視線を避けて横や下を向くか、歯をむき出して笑ったような表情をすればいい。 強いサルは自分の優位性を確認できれば、それ以上威嚇することはない。ただ、自分が強いサルの関心を引きそうな食物に手をかけていたら、すぐさまその場を退いたほうがいいだろう。 競合する場面では、弱いサルが強いサルに譲るように誰もが期待しているからだ。それがサル社会のルールである。 人間ではサルとは違ったことが起こる。時折「眼(注1)をつけただろう」とすごまれる(注2)ことがあるが、見つめるという行為はふつう威嚇にはつながらない。むしろ、相手に積極的な関心を向けたり、許容や忠告、愛の表現であったりする。 視線の向け方にも作法があり、目をかっと見開いたり、細めたり、丸くしたり、四角にしたり、横目や流し目、上目づかいや見下すなど、多種多様である。その作法は文化によっても、性別や年齢、身分や服装によっても違ってくる。それは人間にとって、顔と顔とを合わせ、視線を交わすことが重要なコミュニケーションであるからだ。 実際、言葉が発達した私たちの社会でも、重要なことは直接会って決めることが多いし、面接は人物を確かめる手段として重用されている。 (中略) ところが、現代の情報機器はこの視線の作法をあまり使わなくてもすむ社会をつくってしまった。 人々は毎日インターネットやメールをのぞくために多くの時間を使っている。家族や親しい仲間とじっくり顔を合わせて、対話や協同作業を楽しむ時間を失いつつある。 その結果、多様な視線の作法を忘れ、他人と視線を合わせることが億劫となっているのではないだろうか。だが、言葉は視線のコミュニケーションを代替できない。 言葉は意味を、視線は感情を伝える。むしろ意味があいまいであるからこそ、視線は暖かくも冷たくもなりうるし、そこで受けた印象を後で変えることもできるのである。 言葉は視覚で得た映像や画像を意味として切り取る。そして文字はその言葉を化石化する装置である。それが持ち運び可能な効率的な手段だからこそ、人間は世界を言葉や文字で塗り替えた。だがそのおかげで、私たちは豊かな心を育んできた視線による対面の世界を忘れようとしている。 それは皮肉にもサルのような視線を合わせない、優劣社会に移行することにつながるのではないか、と私は不安に思っている。 (注1)眼をつける:相手の顔をにらむ (注2)すごむ:脅すような態度をとる

50. 筆者によると、サル社会のルールとは何か。

1. 強いサルも弱いサルも、挑戦されれば相手を攻撃する。

2. 強いサルは、弱いサルを威嚇することはない。

3. 弱いサルは、強いサルに挑戦するようなことはしない。

4. 弱いサルは、強いサルの関心を引こうとする。

51. サルとは違ったこととは何か。

1. 視線以外の手段を使って気持ちを表現すること。

2. 視線の向け方が場面によって決められること。

3. 視線を向け続ければ威嚇につながること。

4. 視線を様々な意味に使い分けること。

52. 筆者は、視線の作法をどのようにとらえているか。

1. お互いの感情をうまく伝え合うために必要なもの。

2. 言葉によるコミュニケーションの替わりになるもの。

3. 相手にいやな感情を伝えないようにするためのもの。

4. 性別や年齢、身分や服装に惑わされないように使うもの。

53. 筆者の考えに合うものはどれか。

1. 情報機器を使用せずに感情を伝え合うことは難しくなってきている。

2. 情報機器によるよりも対面のほうが、意味を伝え合うには効果的である。

3. 情報機器の使用も視線を交わすことも、コミュニケーションに不可欠である。

4. 情報機器の発達で、視線がコミュニケーションに果たす役割が見失われつつある。

視覚や聴覚などの情報処理においては、脳の働きの個人差は比較的少ない。丸いものを提示すれば、脳はそれを丸いものとして認識する。丸いものを提示した時に、それを「丸」と認識する人と「三角」と認識する人が相半ばする(注1)ということはあり得ない。同様に、あるピッチの音を聴いた時に、その情報処理に個人差はあまり見られない。 その一方で、ある事象に対する感情の反応においては、個人によるばらつきが大きくなるのが通例(注2)である。同じものを前にしても、全ての人がそれを好きだと感じたり、逆に全ての人がそれを嫌いだと思うとは限らない。ある人が好きだと感じるものを、別の人が嫌いだと思うのはごく普通のことである。感情においては、脳の反応に大きな個人差が見られるのである。 そもそも、感情の働きとは何であろうか?ひと昔前には、感情とはある特定の刺激に対する類型的な(注3)反応であると考えられてきた。大脳新皮質(注4)が担っている理性の働きが環境の変化に応じて柔軟な情報処理を行うのに対して、「爬虫類の脳」とも呼ばれる古い脳の部位が重要な役割を担う感情は、一定の決まり切った反応をするものと思われていたのである。 しかし、近年の脳科学の発達により、感情は、むしろ生きる上で避けることのできない不確実性に対する適応戦略であることが明らかになってきた。理性では割り切れない、結果がどうなるかわからないような生の状況において、それでも判断し、決断することを支えるための情報処理のメカニズムとして、感情は存在していると考えられるに至ったのである。 (中略) 感情が不確実性に対する適応であると考えると、その反応において個人差が生じるのは自然なことである。不確実な状況の下では、とるべき選択肢の「正解」は一つとは限らないからである。 さまざまな人々が異なる戦略をとり、全体としてバラエティが増したほうが、人間という生物種全体としては、むしろ適応的である。生死にかかわるような状況においては、たとえ、ある選択をした人が不幸にして死んでしまったとしても、別の選択をした人が生きのびれば生物種としては存続できるからである。全体が同じ選択肢を選んでしまっては、環境の変化や予想のできない事態に対して脆弱になって(注5)しまう。 他人が異なる感情の反応を見せることを許容することの倫理的基礎は、まさにこの点にある。他人が自分と異なる感情の中にあることに反発するのは自然な心の動きであるが、とらわれて(注6)はいけない。 自他の差異に対して許容的であることが、すぐれて生命哲学上の原理にかなっているのである。 (茂木健一郎「疾走する精神」による) (注1)相半ばする:同じくらいである (注2)通例:一般的 (注3)類型的な:型どおりの (注4)大脳新皮質:脳の一部分 (注5)脆弱になる:もろくて弱くなる (注6)とらわれる:ここでは、ある考えに縛られる

54. 知覚の情報処理と感情の反応について、筆者はどのように述べているか。

1. いずれも大きな個人差が見られる。

2. いずれも個人差はあまり見られない。

3. 知覚の情報処理のほうが大きな個人差が見られる。

4. 感情の反応のほうが大きな個人差が見られる。

55. 近年、感情の働きはどのようなものだと考えられるようになったか。

1. 避けられない状況を受け入れるためのもの

2. 避けられない状況において、理性を保つためのもの

3. 不確実な状況において、判断して決断するためのもの

4. 不確実な状況において、正解を求めるためのもの

56. 個人差が生じることがどのようなことにつながるか。

1. 人間という生物種の存続

2. 人間と他の生物種との共存

3. 生死にかかわるような事態の減少

4. 環境の変化に対応できる生物種の増加

57. 筆者の考えに合うのはどれか。

1. 人々が生きていくためには、感情の個人差を敏感に察知すべきだ。

2. 人々が生きていく上では、感情の反応の個人差を受け入れたほうがいい。

3. 感情の反応に個人差があることこそが、人間であることのあかしである。

4. 感情の反応に個人差があることは、人間を取り巻く環境の変化によるものである。

暮らしの中で身近な木といえば、街路樹と公園の樹木、そして住宅の庭の木あたりでしょうか。いずれも毎日目にはしているものの。あらためて意識することは少ないと思います。でも、例えばこれがすべて枯れてしまったとしたらどうでしょう。なんとも寂しく、無味乾燥な、あるいは何か病気を連想させるようなイメージのまちになってしまうのではないでしょうか。また、昨今は、維持管理の面などから街路樹を植えないまちなどもあるようですが、一見近代的、未来都市的なイメージもしますが、うるおいややすらぎのないまちのようにも見えます。このようにまちの樹木は、実はとても大きな役割を持っています。 では、この木々たちは、ただ植えるだけ、存在するだけでいいのでしょうか。そうではありません。そこに意味や意義がなければならないのです。わかりやすく言うと、街路樹の樹種を何にするかというようなことです。その土地の植生(注1)を踏まえ、その上に歴史性や未来性を重ね合わせる。季節の移ろいの中で、人々がその木をどのように眺めながら暮らしていくのか。そんな積み重ねの上にはじめて「ここにはこの木を植えよう」ということになる。①それがその木がその場所に存在する意義です。 住宅の庭木も同じです。単に自分の好みばかりでなく、その木が住宅街の小路をどのように演出するのか、まわりとの調和はどうなのか。そんなことを考えていくのがまちづくりの中の「木」です。昨今のガーデニング ブームで、確かに個々の家の庭は立派になりました。花や木の種類もずいぶん増えて、ひと昔前には無かったような色や形も見られます。そして、ガーデニングをする人達の情報交流も盛んとなり、新たなコミュニティも生まれているようです。しかし、いま一つ自分の土地から外に広がっていない感じがします。道路や公園は地域にとっての共有の庭であり、個々の部分と共有の部分が美しくなってこそはじめて全体が美しくなるのです。美しく楽しい庭を作っている人々には、②もっと欲張って美しく楽しいまちを作ってほしいと思います。 「愛でる」という言葉があります。これは主に植物に対して使われます。満開の桜や初夏の新緑、真夏の木陰や秋の紅葉・・・。私たちは折々に(注2)木々を眺め、そこに日々の暮らしを重ね合わせたり、育ちゆく木々に子供達の明るい未来を願ったりしているのではないでしょうか。そしてそんな思いをこめて水やりや手入れをする。これが「愛でる」ということだと思うのです。その愛でる心と愛でられる木々があってはじめてよいまちとなるのです。 (加藤美浩『まちづくりのススメ』による) (注1)その土地の植生:その土地にどのような植物が生えているか (注2)折々に:ここでは、機会があるごとに

58. 筆者によると、まちの樹木の大きな役割とは何か。

1. 人々に木が身近な存在であることを意識させる。

2. 人々に未来都市的なイメージを与える。

3. 人々を現実の煩わしさから逃れさせる。

4. 人々を落ち着いた気持ちにさせる。

59. ①それとはどういうことか。

1. その土地に暮らす人々の好みに合わせた樹木を植えること

2. その土地の特性と人々の暮らしを考慮し、樹木を植えること

3. その土地の歴史的な樹木を大切にし、保存すること

4. その土地の季節の移ろいを感じさせる樹木を大切にすること

60. ②もっと欲張ってとあるが、筆者の気持ちと合うものはどれか。

1. 自分の好みだけではなく、まち全体との調和も考えてほしい。

2. ガーデニングをする人達同士で、もっと情報交換をしてほしい。

3. 個々の庭の花や木が、さらに美しく育つようにしてほしい。

4. 個々の庭よりも、まちの共有の部分のほうに力を入れてほしい。

61. 筆者の考えに合うのはどれか。

1. 人々がまちの木々を愛でることで、子供達が自然に関心を持つようになる。

2. 人々がまちの木々を愛でることが、よいまちづくりにつながる。

3. 人々がまちの木々の手入れを怠らなければ、よいまちになる。

4. 人々が季節による木々の変化に関心を持つことで、愛でる心が生まれる。

私は、一人の作曲家として、色々な機会に、自分の作曲について語ってきた。しかしそれは、私自身が、自分の作曲についてよく知っている、ということを意味するわけではない。私の作曲には、言葉で説明できるような組織的な方法論はない。作曲するときの私は、単に、感覚に頼って、直観的に「これが好い」と納得できる音の連なりを探し続ける。そして、「ここが曲の終わりだ」と感じるところにいたったとき、一つの曲の出来上がりとなる。ただそれだけである。 「これがよい」あるいは、「ここが曲の終わりだ」という感覚的な判断の根拠は、説明できない。そして、①そのようにして作った曲が何であるのかについても、よく分からないのである。 もっとも、私は、自分の作曲について本当に何も知らないというわけではない。そもそも、どうやって何を作るかということを全く知らずに物を作ることは、不可能である。例えば、もし、ガラスのことも、そして、花瓶というものがどのようなものかも知らなければ、ガラスの花瓶を作ることはできない。同様に、作曲の場合にも、素材である音と、その音の構成の仕方について知らなければ、そしてされに、音楽というものがどのようなものなのかを知らなければ、曲を作ることなどできない。作曲をするからには、作曲者は、当然、それらにについて一応知っている。 (中略) 作曲は、必ず、何らかの伝統における「基本的な」知識を前提としている。だが、その「基本的な」知識をそのまま(大抵の場合、無意識的に)受け入れて、その範囲で作曲する「保守的な」作曲家達がいる一方で、前衛主義に代表されるような、新たな音楽の可能性を求める作曲家達は、自らが出発点とした伝統における「基本的な」知識の外に踏み出そうとする。そして、この伝統からの踏み出し一あるいは、「逸脱」と言うべきかもしれない一は、常に、実験的な性質を帯びる。つまり、非伝統的な素材を用いることによって、あるいは、非伝統的な音構成法を試みることによって、伝統に由来する「基本的な」知識が告げる音楽というもののイメージから逸脱した未知のものが産み出される可能性があり、そして、この未知なるものを相変わらず「音楽」と呼ぶとしても、それがどのような意義と価値をもつ音楽なのかは、分らないのである。その意義と価値を判断するためには、そこに生まれてきた音楽そのものを吟味してみるほかはない。 私が、自分自身の作曲について語り得ることは、まさにこのこと、つまり、自らが行った実験的な試みの結果として産み出された音楽についての吟味であり、言い換えれば、自分が行ったこととその結果についての自分自身による解釈なのである。 (近藤譲「音楽という謎」による)

62. そのようにして作ったとあるが、どのように作ったのか。

1. 曲全体の出来上がりをイメージしながら作った。

2. 曲の終わりを意識して納得できる音を探しながら作った。

3. 美しいとされている音の連なりを組み合わせて作った。

4. 音の連なりを理屈ではなく感覚的に選んで作った。

63. 筆者は、ガラスの花瓶の例を挙げて何を言おうとしているのか。

1. 音楽の素材として適している音があること

2. 作曲家はどのような仕事をしなければならないかということ

3. 作曲家は何の知識もなく曲を作ることはできないこと

4. 自身の作曲について知らなければいい曲はできないこと

64. 新たな音楽の可能性を求める作曲家達の音楽とは、どのようなものか。

1. 伝統的なイメージから離れた実験的な音楽

2. 「基本的な」知識を知らずに作った未知の音楽

3. 「基本的な」知識を元にして作った新しい音楽。

4. 非伝極的だが「保守的な 」イメージを失わない音楽

65. 筆者によると、自分自身の作曲について語れることはどのようなことか。

1. 自身の曲の意義と価値

2. 自身の方法論についての解釈

3. 自身の試みと、曲についての解釈

4. 自身の作曲過程と、実験的音楽の可能性

以下は、歴史学者について、歴史小説家との比較を中心に書かれた文章である。 歴史学では、史実の究明にはもちろんのこと、新しい歴史像を提示する時にも史料(注1)的根拠が必要です。そして、この史料的根拠を基盤とするがゆえに、歴史学者の歴史観は、相互に批判可能なものです。これは、物理や化学といった自然科学の世界で新理論を展開する場合に、その論拠、論理を他の学者にも検証可能な形で提示しなければならないことと同様です。 しかし、小説にこうした論証を求めるのは無理というものです。最近の小説家に歴史研究者同様の姿勢を求める向きもあるようですが、これは筋違いとしか思えません。やはり、歴史研究と歴史小説は、そもそも目的も手段も違うものなのだとしか言いようがないのです。 また、あるいは、次のような話が参考になるでしようか。 ある時、理学部の天文学(注2)の先生に、「どうして彗星や小惑星などの新天体を発見する人には、アマチュアの天文家が多いのですか」と聞いたことがありました。 新聞でも報じられるような天体現象の発見に、意外と専門研究者が少ないことが気になっていたからです。すると天文学の先生は、「天文学の先端では、彗星などの発見よりは、大きな電波望遠鏡を使って、ある一定の方向から地球に届く宇宙からの電波情報を継続的に受け取り、その数値の分析によって宇宙の大きさを推測したり、宇宙の成り立ちを究明したりしているのです」と教えてくれました。 (中略) 歴史学者と歴史小説家の違いも、これに近いものがあります。歴史小説家を歴史のアマチュアとするつもりはありませんが、同じく歴史を扱いながらも、その立ち位置は違うものだと言えるでしょう。 歴史小説では、誰もがよく知っている人物や事件をとりあげて小説にすることが多いようですが、歴史研究ではむしろ誰も知らないような人物や事件を入り口として史実を究明することがほとんどです。また、政争に誰がいかにして勝ったかというような政治のダイナミックな人間の動きよりは、制度的な政治システムの変遷を追究する方が研究手法としては主流です。そのため、歴史学者が世間一般の歴史フォンを驚かせるような新説を立てる、というようなことは、稀なこととなるのです。 もちろん、天文学者であれば研究機関に属していようが星に無関心でないのと同様に、歴史研究者もメジャーな歴史トピックに関心がないわけではありません。しかし、一見地味な事例研究を積み重ねることによって、それまでの通説を修正する新しい視点が見いだされていくことを、研究者は知っているのです。つまり、一足飛びに(注3)通説を覆そうとして、特定の視点から史料を読むような真似(注4)は禁物なのです。 (山本博文『歴史をつかむ技法』による) (注1)史料:歴史を研究するための文献や遺物 (注2)天文学:宇宙と天体について研究する学問 (注3)一足飛びに:ここでは、手順を無視して一気に (注4)真似:ここでは、行動

66. 筆者によると、歴史学と自然科学の共通点は何か。

1. 研究の価値は新説を示すことで認められること

2. 新説の展開には、学者同士の相互批判が欠かせないこと

3. 新説の根拠を検証可能な形で示すのは容易ではないこと。

4. 他の学者が検証ができるように、新説の根拠を示す必要があること

67. 天体現象の発見に専門研究者がいないのは、なぜか。

1. 専門研究者は、新天体の発見には価値がないと考えているから

2. 専門研究者は、新天体の発見より宇宙そのものの探究を目的としているから

3. 専門研究者は、アマチュアの天文家との役割分担を意識しているから

4. 専門研究者は、アマチュアの天文家の発見を集約して宇宙全体を研究しているから

68. 歴史小説家について、筆者はどのように述べているか。

1. 制度的な政治システムを題材としている。

2. 誰も知らない史実を面白く物語にしている。

3. 有名な人物や出来事などを題材としている。

4. 歴史学者が気づかないような視点で書いている。

69. 歴史学者について、筆者はどのように述べているか。

1. 通説を覆すために、新しい史実を発見しようとしている。

2. 通説に惑わされず、特定の視点から歴史をとらえようとしている。

3. 個々の事例研究を踏まえて、史実を明らかにしようとしている。

4. 知られていない史実をとりあげ、人々の歴史認識を改めようとしている。

アジアであれヨーロッパであれ、あるいは、三日であれ1カ月であれ、旅から帰って成田空港(注1)に着く。 (中略) 私はいつもバスではなくて列車で家まで帰る。 都心に向かう列車には、旅から帰ってきた人と、これから旅する人たちが乗っている。話している人たちがいても、不思議に静かだ。帰る人の疲れと、旅する人の緊張が混ざり合ったような、ほかの路線ではなかなか味わえない静けさである。 列車がトンネルを出ると、私は窓の外の景色を見る。空港からしばらくは、田園風景が続く。彼方まで続く田んぼは、季節によって一面の緑だったり茶色だったり、はられた水が空を映して青かったりする。山々が、遠くに見えたり近くに迫ってきたりする。冬枯れの景色でも、緑濃い初夏でも、自然の色彩が非常にやわらかいことに毎回あらためて気づかされて、そうして、帰ってきたなあと実感する。アジアにもヨーロッパにもそれ以外のどこにでも、ゆたかだったそうではなかったりする自然がある。田舎を旅すればむせかえるような(注2)縁のなかを歩くことになる。見慣れた田んぼとそっくりな光景を見ることもある。葉の落ちた木々が針のような枝を空に突き刺す景色に見とれることもある。緑の多い町だ、とか、水墨画(注3)みたいだ、とか、その程度の感想は抱くが、その色彩についてとくべつ何も思わない。 帰ってきて、車窓から景色をみて思うのだ。この国の色彩は本当にやわらかい、と。木々の緑も、四季(注4)に即した山の色も、川も空も。旅先で見てきた木々や空や海といったものが、なんと強烈な色を放っていたのかとこのときになって気づく。 窓の外に緑が少なくなって、次第に家やビルが増えてくる。都心が近づくにつれ、どんどん建物や看板が増えてくる。さっきより「ああ、帰ってきた」がもう少しふくらむ。都 「心の、空の狭い、ごたついた(注5)風景をきれいだと思ったことは一度もないけれど、でも、帰ってくると毎回近しく(注6)思う。好きとか嫌いではなくて、私に含まれているかのような近しさを覚えるのだ。 先だって、成田空港まで人を迎えにいった。旅のにおいをまだ濃厚に漂わせている人を到着口で迎え、いっしょに列車に乗り込んだ。旅の話を聞きながら、窓の外を眺めていて、「ちょっとびっくりした。旅から帰って見る景色とぜんぜん違う。退屈な、見るべきところもない田園風景が広がっているのである。そうか、旅のあとじゃないと、ただの日常の光景なのか。都心が近づいてくる。窓の外に私が見ている光景と、旅から帰ったひとから見ている景色は、まったく違うんだろうなあと思った。 旅というのは、空港に着いたときに終わるのではなくて、周囲の景色が、わざわざ目を凝らすこともない日常に戻ったときに終わるのだと知った。 (角田光代『トランヴェール』2012年3月号による) (注1)成田空港:日本の国際空港 (注2)むせかえるような:ここでは、圧倒されるような (注3)水墨画:墨を使って、白黒の濃淡で描かれた絵 (注4)四季に即する:ここでは、四季によって変わる (注5)ごたつく:ごちゃごちゃする (注6)近しい:ここでは、心理的に近い

70. 帰ってきたなあと実感するのは、どんなときか。

1. 都心に向かう列車のなかで静けさを感じたとき

2. 日本の自然の色合いをあらためて意識したとき

3. 日本には緑が多いことにあらためて気づいたとき

4. 四季の変化が感じられるような色に気づいたとき

71. 外国を旅しているときの、筆者の自然に対する反他はどのようなものか。

1. 色彩の多様さに驚くことはあるが、とくべつよいとは感じない。

2. 色彩が強烈だと思うことはあるが、見とれることはあまりない。

3. 景色にひかれることはあるが、色彩にとくべつな印象は持たない。

4. 懐かしい景色だと思うことはあるが、色彩がやわらかいとは思わない。

72. 帰国したときに都心の風景を見て、筆者はどう感じるのか。

1. 自分の一部であるような親しみを感じる。

2. 自分を受け入れてくれる優しさを感じる。

3. 自分の好みに合っている場所だと感じる。

4. 自分のふだんの生活に戻ったように感じる。

73. 筆者は、旅というものをどのようにとらえているか。

1. 旅は、慣れ親しんだ景色のよさを再確認させてくれる。

2. 旅は、見慣れた風景に新しい何かを発見することを可能にする。

3. 旅は、旅先と慣れ親しんだ景色の違いに気づいたとき終わる。

4. 旅は、見慣れた風景が再びありふれた日常になるまで続いている。

以下はある芸術家が書いた文章である。 人間は動物とちがって知的な活動その情熱をもっている。おさなくたって魂の衝動は強いのだ。だから子供は描きたがる。形色にして確かめる。だが問題は自分のなかにあるものを外に突き出す投げ出すという行為自体であって決して出来上りの効果ではない。 だから子供は描きおわってしまったものはふり向きもしない。捨てられたって何とも思わないのだ。 (中略) それを大事そうに拾いあげて「これは面白い。」「坊やは才能がある。これをうまく伸ばせば将来えらい画家になるかもしれない。」などと観賞したり評価するのはいつでも大人で子供自身はもしほめられてもそんなものかなと聞いているだけである。 だから「子供の絵」というような言い方の根本に何か間違いがあると私は思う。描いたものには違いないが「作品」ではない。その以前のもっと根源的な何ものかなのである。 「絵」などというから大人の「絵画作品」と混同して考えてしまう。そこにズレがおこる。大人のは見せる芸であり商品である。はじめから観賞することしてもらうことを目的とし結果を予測しながら作り上げたものなのだ。 いわゆる「絵描きさん」となると描いている瞬間瞬間に結果がわかっている。こうやればこうなる。習練(注1)と経験によって色やタッチ(注2)の効果が計算できるし生命の衝動情熱無目的な行動よりも結果の方に神経が働いてしまう。出来ばえに逆にひきずり回されているのだ。 しかも大向こう(注3)の気配まですでに見すかして……こんな趣向は喜ばれるだろうこれはちょっとやりすぎかななどと意識・無意識にそんな手応えにあわせながら仕事をすすめている。評判をとり買手がついてくれなければ食ってゆけないし社会が許さない。生活はきびしいのだ。無償の行為というわけにはいかない。明らかに「作品」つまり「商品」を作っているのである。大人の作品だって本質的には生命力こそ肝要なのだ。自分の存在を純粋に外に投げ出す突き出すアクションの質強さによって猛烈な魅力になる。 私自身は少なくともそのつもりである。よくあなたの絵はわけがわからないと言われるが「絵」でございますというようなものは作りたくない。それ以前そして以後のものをひたすらつきつける。――絵ではなく芸術。そして出来るかぎり他の評価を無視したいと思っている。 (岡本太郎『美しく怒れ』による) (注1)習練:練習 (注2)タッチ:ここでは筆の使い方 (注3)大向こう:ここでは観賞する人々

74. 捨てられたって何とも思わないのはなぜか。

1. いつでも描きたいものが描けるから。

2. 描きたいものが描けて納得したから。

3. 描きたいという欲求が満たされたから。

4. 最後まで描けたことに満足しているから。

75. 子供の描いたものが「作品」ではないのはなぜか。

1. 大人ほどの表現力や情熱をもって描かれていないから。

2. 観賞されることを目的として描かれていないから。

3. 評価に値する出来上りになっていないから。

4. 描いた本人が価値を認めていないから。

76. 「絵描きさん」について筆者はどのように述べているか。

1. かんぺきな出来ばえを求めている。

2. いつも同じような描き方をしている。

3. 買手の要望どおりに描いている。

4. 買ってもらえるように描いている。

77. 筆者は芸術をどのようにとらえているか。

1. 人を引きつける魅力的なもの。

2. 情熱に突き動かされて作るもの。

3. 他人には理解できないようなもの。

4. 人間の生命力を巧みに表現するもの。

自然は多種多様の生物群が存在することで、それなりの安定を維持している。そのなかの一種ないし数種を撲滅することは、とりもなおさず全体のバランスをくずす結果になる。複雑な形の自然石かつみかさなってできた石垣から、一個ないし数個の石をひきぬいたらどうなるか。影響はたちまち全体におよび、石垣そのものの大規模な崩壊をおこすにちがいない。ちょうどそれとおなじである。しかも自然界の場合、構成それ自体が複雑であるゆえに、影響もいっぺんには表面化しない。ある部分はたちどころ(注1)に、べつの部分は長期間をおいたのちに、被害の進行をあらわにしてくる。人間自身の予想もしなかった個所へ、①意表をついた連鎖反応の結果がでてくるのである。Aなる(注2)害虫を除去する目的で、ある薬剤が使用されたとしよう。その目的はたっせられて、Bなる作物が虫害をまぬかれた。しかしその結果、おなじくAによって食い殺されていたCやDの種属が、抑制因子をとりのけられて爆発的に増加し、あらたな害虫となってBにおそいかかる。こういった例が多数あるのである。 殺虫・殺菌の効能をもつ化学薬品が、いったん開発されてこのかたというもの、人間は文字どおりなりふり(注3)かまわず、ひたすらそれへの依存度を増し、つまり量質ともに強大化する方向へつっぱしった。なぜそのようにしなければならなかったのか。最近の日本では、②このことをもいわゆる公害の一種にふくめ、製薬資本の営利主義――すなわち企業の利益のため不必要な薬品を売りまくって乱用をすすめたことが、非難のまとになっている。しかしこれだけで片づけられるほど、事態の本質は単純でないのだ。上のような皮相(注4)的見解でわりきるには、現在の状況はあまりに絶望的である。すでに③最初の出発点からして、人間の文明それ自体のなかに、かく(注5)ならざるをえない必然性がやど(注6)されていた。一企業の責任に帰するには、悲劇の根はいささか深すぎる。 人間が今日のごとく高度文明をきずきえたのは、採集経済から脱して、牧畜さらに農耕という生産手段を発明したからである。それは換言すると、ある特定の土地を、牧場あるいは田畑として使用することである。さらに換言すると、人間の利用目的にかなう家畜・作物によって、それらの土地を独占させることでもある。ほんらいならばそこの土地には、家畜・作物いがいの各種生物が、当然のこととして棲息(注7)していた。人間はそれらの生物群にたいし、害獣・害鳥・害虫あるいは雑草といった汚名を一方的にかぶせ、強引に排除する手段にでた。こうして自然界のバランスがくずれた。いわゆる公害の起原は、工業とともにおきたのではなく、遠く牧畜ないし農耕のはじまりにさかのぼるのである。 (レ チェル・カーソン著・青樹簗一訳『沈黙の春』一筑波常治の「解説」による) (注1)たちどころに:たちまち (注2)~なる:ここでは、~という (注3)なりふりかまわず:ここでは、先のことも考えず (注4)皮相的:表面的 (注5)かく:このように (注6)やどす:含む (注7)棲息する:生きる

78. 筆者は、①意表をついた連鎖反応をA B C Dを用いてどのように説明しているか。

1. BをおそうAを除去した結果、あらたな強いAが発生してCやDをおそうようになる。

2. BをおそうAを除去した結果、Aに食い殺されていたCやDがBをおそうようになる。

3. BをおそうCやDを除去した結果、あらたなAが増加してBをおそうようになる。

4. BをおそうCやDを除去した結果、CやDに食い殺されていたAがBをおそうようになる。

79. このこととあるが、このこととは何か。

1. 化学薬品の開発

2. 化学薬品の有用性

3. 化学薬品の有用性

4. 化学薬品の量と質の強大化

80. 筆者が考える③最初の出発点とはいつのことか。

1. 人間が採集活動によって生活を営みはじめたころ

2. 人間が土地を牧場や田畑として使用しはじめたころ

3. 企業に資本が集まり、産業が発展しはしめたころ

4. 文明が高度化し、工業が盛んになりはじめたころ

81. 筆者によると、自然界のバランスがくずれた原因は何か。

1. 人間が生産手段は発明したこと

2. 人間が薬剤開発のために各種生物群を利用してきたこと

3. 人間が人間に利用価値のない生物群を排除してきたこと

4. 人間が人間いがいの生物群の存在を無視してきたこと

音楽に限ったことではないが、芸術、文化などの名で呼ばれるものはどうしても、現実の政治経済や社会生活に関わることがらとは切り離されたものと考えられることが多く、また、そうであるがゆえに価値を持つものとされてきたと言ったほうが、よいだろう。近年のように財政状況が悪化するなど、現実生活をめぐる状況が深刻になってくると、こういうものはしばしば不要不急な「無駄」として切り捨てられそうになる。他方で、荒れた世の中をしばし(注1)忘れるためのオアシスのような場所としての意義が叫ばれるようになったりもするのだが、いずれにしても、その音楽を研究している立場のわれわれはしばしば、「この世知辛い(注2)世の中で、そんなことをやっていられるというのはうらやましいことです」などと言われ、①何とも複雑な心境になるのである。 だが、コペルニクス的転回を遂げた(注3)と言っても、過言ではない近年の文化研究の進展の中で、政治や社会の話と切り離して文化が論じられるなどということが幻想である、というより、そのような幻想自体、すでに一定の政治的社会的イデオロギーの刻印を帯びた(注4)ものにほかならなかったということが明らかにされてきた。いまや、音楽研究者の中にも、政治や社会から切り離された純粋な「音楽そのもの」がどこかに宙(注5)に浮いたような形で存在しているなどと素朴に信じているような人は、誰もいないだろう。 音楽研究に関わる人々の意識も代わり、研究の内実も大きく変わってきているにも関わらず、むしろ、音楽研究の世界の外側にいる人のほうが、音楽を「純粋」な形で囲い込みたがっているように思われるのは②皮肉なことだ。社会科学の最先端で議論をしている人が、音楽の話になったとたんに、30年前の音楽研究に戻ったかのような古典的なデータや図式でものを考えていることが明らかになるような場面に、これまで、何度か出会ってきた。歴史学者などが中心になって、編んだ領域横断的な論集などで、音楽の部分だけはひどく浮世離れした(注6)古めかしい論文が掲載されており、音楽研究の最近の成果と大きく切り離してしまっているようなこともしばしばある。ここ十数年で、音楽研究者の目に映る音楽の世界もずいぶんと変わっているのに、われわれの発信が不足しているために、その面白さを十分に伝え切れていない。そんな気がするのである。 (渡辺裕『音楽は社会を映す一考える耳「再論」』による) (注1)しばし:しばらく (注2)世知辛い:暮らしにくい (注3)コペルニクス的転回を遂げる:考え方がこれまでと根本的に変わる (注4)刻印を帯びる:ここでは、影響をうける (注5)宙:空中 (注6)浮き世離れした:現実と懸け離れた

82. 何とも複雑な心境になるとあるが、なぜか。

1. 芸術や文化の価値が現実生活で高く評価されないから。

2. 芸術や文化と社会生活との関係が希薄になっていくから。

3. 芸術や文化の研究が現実生活に役立たないと思われているから。

4. 芸術や文化が社会生活とは懸け離れていると思われているから。

83. 筆者によると、近年の音楽研究者は、音楽をどのようにとらえているか。

1. 社会の状況が悪化したときに最も必要とされる。

2. ほかの芸術や文化と同等には論じられない。

3. 現実生活と切り離した純粋なものである。

4. 政治や社会に深く関わっている。

84. 皮肉なことだとあるが、何が皮肉なのか。

1. 音楽研究者以外の人の方が、音楽について、最先端の議論を従っていること

2. 音楽研究者以外の人の方が、音楽を特別なものとしたがっていること

3. 音楽研究者以外の人の方が、音楽を純粋に楽しんでいること

4. 音楽研究者以外の人の方が、音楽をよくわかっていること

85. 現在の音楽研究者のあり方について、筆者はどのように述べているか。

1. 音楽の持つ普遍的な価値を社会によりわかりやすく伝えることが課題だ。

2. 音楽研究の成果をこれまで以上に発信することが求められている。

3. 最先端の音楽研究について議論していくことが重要である。

4. 音楽に対する意識を変えて新たな研究に取り組むべきだ。

まず、教育とは何か、ということから考えてみよう。さしあたってぼくは、教育とは、子どもを「社会の成員(大人)としてふさわしい存在」へと育て上げていくこと、と定義してみたい。 どんな時代、どんな社会の人びとでも、子どもを大人に育て上げなくてはならなかった。そのさいには、①社会の成員として「ふさわしい」あり方が何かしら想定されていて、それが教育の営みを導いていたはずだ。 その「ふさわしさ」は、大きく二つに分けられるだろう。一つは、働いて食べていけるために必要な能力、つまり農民なら農民としての、漁民ならば漁民としての、技能や知識。もう一つは、他の人びとのあいだでふさわしいふるまいができること――基本的なルールを守り、他の人びとと協力する態勢をとれること、自分に与えられた役割を果たし、その責任をとれること等々、つまり、他者との関係能力である。 では、現代社会においては、どういうことが「大人としてふさわしい」のだろうか?教育理念を構築するとは、このことをあらためて考え、かつ共有しようとすることに他ならない。だが、この「共有」ということはなかなかむずかしい。そこには、社会のあり方と人間の生き方をどのようなものとして思い描くか、つまりは、異なった社会観•人間観がさまざまに入り込み、衝突してくるからだ。 たとえば、ぼくが最初にあげた「教育とは、子どもを社会の成員としてふさわしい存在にすることだ」という定義に対しても、②反発を覚える人がいるだろう。「それは、社会的期待に子供を添わせようとするよくない発想だ。教育とはむしろ、子供の主体的な判断力を育てるものだ」というわけである。 この意見はしかし、「社会の秩序にただ従うだけでなく、主体的な判断のもとにみずからの人生をつくりあげ、社会のあり方をも批判的に検討する人間こそが社会の成員としてふさわしい」という近代的な人間観にもとづいている。これもまた、社会の側が子どもたちに寄せる「期待」の一種だと言わざるをえない。そして子供を放置すれば主体的•批判的な人間になるはずもないから、そのように「育て上げ」ようとしなくてはならない。 いずれにせよ、教育というものは、社会(大人)の側が子供に寄せる期待、もっと強い言い方をすれば、ある種の強制から自由ではない、とぼくは考える。重要なことは、「この社会の一員、つまり大人として生きていくうえで何が必要な条件なのか」ということをきちんと見定め共有したうえでの強制であるかどうか、という点なのだ。 (苅谷剛彦•西研『考えあう技術――教育と社会を哲学する」による)

86. 社会の成員として「ふさわしい」あり方とはどのようなものか。

1. 子供を養い、社会において責任あるふるまいができること

2. 自立するために必要な能力を身につけ、自由に生きていけること

3. いつの時代にも通用する技能や知識を備え、他者に尊敬されること

4. 技能や知識を身につけ、他者とのあいだでうまく生きていけること

87. 教育理念を「共有」することがむずかしいのはなぜか。

1. 社会や人間について色々な考え方がありぶつかり合うから

2. 教育者と一般社会の人びとが思い描く大人らしさは違うから

3. 子どもの主体性について一致した見解が得られないから

4. 社会のあり方や人びとの価値観が変化してきているから

88. 反発を覚える人の意見について、筆者はどのように考えているか。

1. 大人の期待を実現しようとするという点では筆者の考えと同じだ。

2. 大人の期待を押し付けようとすることは教育理念にそぐわないものだ。

3. 子どもの主体的な判断力がみずから育つと考えることは思い込みでしかない。

4. 子どもの主体的な判断力を育てようとする点では筆者の考えと変わらない。

89. 教育について、筆者の考えを表しているのはどれか。

1. 教育は社会の秩序に縛られない主体的な判断力を養うものだ。

2. 教育は社会のあり方を批判的に検討できる能力を育てるものだ。

3. 教育は強制から逃れられず、その強制は教育理念の共有が前提となる。

4. 教育は強制から自由ではなく、社会の有力な教育観を受け入れざるをえない。

我が身が生涯に望み、知りうることは、世界中を旅行しようと、何をしようと、小さい。あきれるくらい小さいのだが、この小ささに耐えていかなければ、学問はただの大風呂敷(注1)になる。言葉の風呂敷はいくらでも広げられるから、そうやっているうちに自分は世界的に考えている、そのなかに世界のすべてを包める、①そんな錯覚に捕らえられる。木でいい家を建てる大工とか、米や野菜を立派に育てる農夫とかは、そういうことにはならない。世界的に木を削ったり、世界標準の稲を育てたりはできないから、彼らはみな、自分の仕事において賢明である。我が身ひとつの能力でできることを知り抜いている。学問をすること、書物に学ぶことは、ほんとうは ②これと少しも変わりはない。なぜなら、そうしたことはみな、我が身ひとつが天地の間でしっかりと生きることだからだ。 人は世界的にものを考えることなどはできない。それは錯覚であり、空想であり、愚かな思い上がりである。ただし、天地に向かって我が身を開いていることならできる。我が身ひとつでものを考え、ものを作っているほどの人間なら、それがどういう意味合いのことかは、もちろん知っている。人は誰でも自分の気質を背負って生まれる。学問する人にとって、この気質、農夫に与えられる土壌のようなものである。土壌は天地に開かれていなければ、ひからびて(注2)不毛になる。 与えられたこの土を耕し、水を引き、苗を植える。苗がみずから育つのを、毎日助ける。苗とともに、自分のなかで何かが育つのを感じながら。学問や思想もまた、人の気質に植えられた苗のように育つしかないのではないか。子供は、勉強して自分の気質という土を耕し、水を引き、もらった苗を、書物の言葉を植えるのである。それは、子供自身が何とかやってみるほかはなく、そうやってこそ、子供は学ばれる書物とともに育つことができる。子供が勉強をするのは、自分の気質という土壌から、やがて実る精神の作物を育てるためである。「教養」とは、元来この作物を指して言うのであって、物識り(注3)たちの大風呂敷を指して言うのではない。 (前田英樹『独学の精神』による) (注1)大風呂敷:実際より大きく見せたり言ったりすること (注2)ひからびて:乾ききって (注3)物識り:物事をよく知っている人

90. そんな錯覚に捕らえられるとはどういう意味か。

1. 自分は何でも知っていて世界を相手にできると思う。

2. 言葉でどんなことでも伝えられるような気になる。

3. 学問から得られることには限界がないと感じてしまう。

4. 人間が世界から学べることはいかに大きいことかと思う。

91. これとは何を指すか。

1. 自分にできることを把握したうえで仕事をすること

2. 自分が世界のために何ができるかを考えて仕事に励むこと

3. できる限り多くの知識を得て自分の仕事に役立たせること

4. 人のためにできることは何かを考えたうえで仕事をすること

92. この文章では、学問をするということをどのような例を使って説明しているか。

1. 与えられた土を耕し、よい苗を選んで植える。

2. 与えられた土を耕し、よい作物になるように苗を育てる。

3. 与えられた土壌を改善するために耕し続ける。

4. 与えられた土壌を改善しながら世界標準の作物を育てる。

93. 筆者は「教養」をどのようなものだと考えているか。

1. 新たな気質を見いだすことができる学問や思想

2. 人それぞれの気質の中で育まれた学問や思想

3. 生きていくうえで必要な専門的な知識

4. 書物や学問から得られた多くの知識

以上は、筆者が著書の中で「哲学の役割」について書いたものである。 ここで大切なのは、とりわけ科学の意義と限界をしっかりと見定めて、人間的知の全体をほんとに見渡しうる哲学的知の立場を我がものとすることにある。というのは、科学的知は、二つの限界を持ち、その限界内でしか意義を持たないからである。 一つには、科学的知は、対象を突き放して、第三者的立場で、自分に関わのない客観的事象として眺め、しかも、必ずそのつど、特定の観点からだけ対象を扱い、自分が関心を持つ側面だけを取しゃしょうり上げ、それ以外の局面を捨象し、(注)決して対象の全体を見ようとはしないのである。だから、科学が進むと、細分化が必至となり、隣の研究室でやっていることが、お互いにはまったく分からなくなる。専門化と特殊化が、科学の運命であり、いかに学際化が叫ばれても、根本的には①この傾向には歯止めが利かない。それはちょうど、近代的病院で、病気を扱う諸部門が、外科や内科等々として、細かく分かれ、人間全体を扱ってくれる部署が存在しないのと、同様である二つには、科学的知は、対象を、自分と無関係な事柄として扱う客観性がその特色をなしているので、そこでは、私たちが、自己として、主体的に決断して実践的に生きてゆく行為の問題を、本質的に扱うことができないのである。というのも、ある状況のなかで、いかに生きるべきかをよく考え、決断し、行為してゆくためには、来し方行く末をよく熟慮して、もはや無い過去と、いまだ無い将来とを視野に収めながら、現在の状況のなかに突き入ってゆかねばならない。しかし、そのような無いものを視野に収めながら、記憶と期待の熱い思いを抱きつつ行為することは、知覚的に有る現在の事実に検証されることによってのみ確実性を得ようとする科学の実証性とは、まったく別個の事柄だからである。客観的な事実確認のみを大事と考える科学の次元と、人生の岐路に立って、右すべきか左すべきかに思い悩む行為者の立場とは、別個の事柄である。②科学は、いかに生きるべきかという後者の問題を、本質的に扱うことができないのである。 したがって、科学とは別に、存在の全体を視野に収め、世界のあり方の原理的全体を考慮して、世界観の知を育むと同時に、そのなかで、人間はいかに生きるべきであるのかという、人間の主体的な行為の根本を考究して、人生観の知を形成するところに、哲学的な知の本質的な成立根拠があることになる。哲学が愛し求める真実の知とは、こうした人生観・世界観の根本的にほかならない。 ( 二郎 『現代の哲学』 による ) (注)捨象する:捨て去る

94. 科学的にもごとを見るとういうことを、筆者はどうのようにとらえているか。

1. 現在の事象の一部だけを取り上げて客観的な立場で検証する。

2. 関心のある対象だけを客観的な立場で検証し未来を予測する。

3. 過去の経験をもとにして客観的な立場で現在の状況を扱う。

4. 人間的知の全体を客観的な立場からだけとらえる。

95. この傾向とあるが、どうのような傾向か。

1. 近代的な研究を行う部門がさらに増えてきた。

2. 特殊な研究対象が排除されるようになってきた。

3. 研究対象をより実践的にとらえるようになってきた。

4. 専門分野が以前より細かく分かれるようになってきた。

96. 科学は、いかに生きるべきかという後者の問題を、本質的に扱うことができないとあるがなぜか。

1. 客観的な事実確認を重視するものだから。

2. 現在の行為だけを主体的に扱うものだから。

3. 人間全体を解明すろことができないから。

4. 人間の考えや行為の多くをまだ実証できないから。

97. 哲学的知の重要性はどこにあるか。

1. 人間の生き方の根本を扱えること。

2. 主体的に考え方法を示せること。

3. 科学的な世界えを視野に入れられること。

4. 世界のあり方を客観的にたらえられること。

心は目に見えない。だから客観的に知ることはできない。ならば、心とか意識なんて面倒なことを考えるよりも、目で見える、定規で測れるものだけを考えることにしよう。そう考える人がいても不思議ではない。 行動主義心理学(注1)と呼ばれるこの流派では、サルやネズミなどにレバー(注2)押しなどの行動を訓練し、その行動から動物の心を探っていく。しかし動物に「まずはレバーを押してみてください」と頼むわけにはいかない。例えば、初めて実験室につれてこられたサルは、そもそもレバーにさえ気づかないからだ。 では、サルにどうやってレバーを押させるのか? ポイントは二つ。ひたすら待つ。そして少しずつ目標に近づける。 例えば、サルが少しでもチラッとレバーを見たとする。そこですかさずエサを与える。これを何度か繰り返すと、サルの注意が次第にレバーに向いてくる。ここでいったんエサやりを止める。するとサルは、うろつきまわったりキョロキョロしたり、色々なことを試し始める。ここが我慢のしどころ。試行錯誤の中、サルの手がレバーに伸びるのをじっと待つ。そして手が少しでも伸びれば、すかさずエサを与える。 こうして、適切なタイミングでエサをやりながら、少しずつ目標の行動に近づけていくのである。 私はこのやり方を、大学院生の頃、助手の先生に教わった。それは教科書に書いてあるとおりのことだったが、実際にやってみると、それは衝撃の体験だった。 エサやりのボタンを右手に持ち、白黒のモニターごしに、サルの行動をじっと見つめる。私はエサに念じていた。「振り向け、レバーに振り向け」。伝わらない思いを伝えたい。ふいにサルがレバーに近づく。と、すかさず「エサやり」というメッセージを送る。それは紛れもなく(注3)コミュニケーションであった。 この訓練をずっとやっていると、徐々にサルの気持ちがつかめてくる。そして、気持ちがつかめてくると、訓練は格段に早く進む。行動だけを見よといいながら、その実(注4)、うまく訓練するにはサルの心がつかめていなければならないのだ。心は行動からしかつかめない。しかしそれがつかめたとき、手の中にサルの心があるように思えてくる。 そのとき私は、学問の本当に大事なことは、教科書には書いていないことを知ったのだった。 (金沢創 「心体観測」 2009年2月8日付朝日新聞日曜版による) (注1)行動主義心理学:人間や動物などの行動を観察して研究する学問。 (注2)レバー:機器を操作するときにつかんで動かす捧。 (注3)紛れもなく:間違いなく。 (注4)その実:実際には。

98. サルにレバー押しをさせる目的は何か。

1. サルを訓練して、人間の意図を読み取れるようにすること

2. サルを訓練して、動物だけが持つ見えない能力を開発すること

3. サルの行動を通して、動物に対する人間の心の動きを探ること

4. サルの行動を通して、目に見えない動物の心や意識を研究すること

99. この実験室内の訓練で、人間はサルに対してどのように対応しているか。

1. サルをレバーの近くに連れて行き、目標の行動をしたらすぐにエサをやる。

2. サルがレバーを押したらエサを指し示し、目標の行動をするまでじっと待つ。

3. サルにレバーを指し示し、人間が期待する次の行動をしたらすぐエサをやる。

4. サルがレバーを見たらエサをやり、人間が期待する次の行動をするまでじっと待つ。

100. そのときとは、どんなときか。

1. 「エサやり」というメッセージを繰り返し送ることで人間とサルの行動の違いがわかったとき

2. 「エサやり」 というメッセージを送る過程を通して、サルの心がつかめたと感じたとき

3. レバー押しの訓練が進むにつれて、サルが筆者の心をわかってくれたと感じたとき

4. レバー押しの訓練によって教科書には書かれていないサルの行動が解明されたとき

101. 筆者がこの訓練をしてわかったことは何か。

1. 動物を目標に近づける訓練では、「エサやり」を通して動物が人間に慣れることが大切だ。

2. 動物を訓練するためには気持ちをつかむことが重要であり、それは自分で体験して初めてわかる。

3. 動物の心理を探るためには、まず教科書に書いてあるとおりのことを実践することが大事だ。

4. 動物の心をつかむには目に見える行動だけに注目することが大切だが、そのことは教科書に書いていない。